鈴木松什は、寛政10年(1798)柴又村に生まれ通称を安五郎、俳号を無有庵松什といいました。瓦の製造を生業としていましたが、若くして俳諧の道に入り、当時江戸の俳諧師として名の知れていた蓼松のもとで学びました。松什は俳句のほか書画にも優れ、中央の俳壇までその名を知られていました。
    「気も散らで 暮れに及ぶや 蓮の花」
 彼の編集した句集「芭蕉翁発句類題集」などは著名なもので、嘉永6年(1853)松什の没後も柴又を中心に俳句が盛んに作られました。鈴木松什は当区の生んだ文人の先覚として、この地域の文化に寄与した顕彰すべき人物です。(葛飾区教育委員会)

 元禄7年(1694)7月に建てられたもので、中央に地蔵の浮彫、その左側に「そうか迄二里半」、右には「ミキいわつきしおんしミち」とあります。以前はここより30m南の街道沿いにありました。
 岩槻慈恩寺は、坂東三十三観音霊場の第12番札所として知られ、江戸川沿いの人々の信仰を集めていました。この道は岩槻慈恩寺道と呼び、舟運が発達するまでは行徳の塩を運ぶ陸路として利用されました。その後慈恩寺へお参りに行く人々の道として賑わいました。「金町村同行弐百三十五人」と刻まれていることから、多くの信仰を集めていた様子が伺えます。(葛飾区教育委員会)





本堂に掛かる光増教寺の扁額

享保12年(1727)の六地蔵尊

光増寺本堂

元禄5年(1692)の観世音菩薩

寛文13年(1673)の観世音菩薩

一面六臂の青面金剛の庚申塔

太子堂内陣

俳人・鈴木松什の墓解説

舟形地蔵尊解説

俳人・鈴木松什の墓

道標を兼ねた舟形地蔵尊

真向如来像が祀られた俱会堂内陣

法隆寺の夢殿を模した俱会堂

俱会堂に掛かる扁額

本堂前の松

太子堂