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川越街道   (板橋(平尾追分)~野火止)


平成28年11月29日(火)   ☀|☁   板橋(平尾追分)~野火止  16.2㎞
川越街道は、室町時代に太田道灌が江戸城と川越城を築き、二つの城を繋ぐ道を造ったのが始まりと言われ、江戸時代に入って川越城主となった松平信綱と嫡男の松平輝綱が整備した道である。江戸城からは日本橋を出発して中山道を進み、板橋宿平尾追分で中山道と分かれ、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿を通り、川越城下へ入って行く。
本日は、午前7時に平尾追分を発って、途中の寺社仏閣に寄り、日没前に野火止にたどり着いた。

平尾追分 馬頭観音 宝仙寺 子易神社
東京の日の出は6時31分であるが、天気予報に反して空はどんよりと曇っており、7時でも街灯が点いた状態である。
右は板橋宿と記されたゲートのある中山道であり、左の高速道路側が川越街道である。
平尾追分の直ぐ先で左に進むと首都高速の橋脚脇の分離帯に鉄製の御堂があり、中に馬頭観音が安置されている。 馬頭観音の前の四ツ又交差点を左折すると左手に日蓮宗の本光山宝仙寺がある。
宝仙寺は、延宝5年(1677)に、大坂天満の蓮興寺5世日順上人を開山に、本山京都要法寺の末寺として河内国若江村(現東大阪市)で創建されたのが始まりという。境内には、宝仙寺由緒のほかは、石造物などは全くない。
宝仙寺の南側に子易神社がある。
子易神社の創建年代は不詳であるが、富士浅間神社の分霊を勧請したと云われ、江戸時代子安宮又は子安神明とも称し、明治初年子易神社と改称した。
子易神社前交差点前の一の鳥居脇に胸突地蔵尊堂があり、境内には子安観音堂・稲荷神社などの境内社がある。

ハッピーロード大山 瑞法寺 大山福地蔵尊 旧道口
街道に戻って大山東町交差点の先を進むとハッピーロード大山の商店街となる。
この道はややくねっており、川越街道に沿って発展した商店街であると分かる。大山の地名には、昔この辺りに丘があって 「大山」 と呼んでいたという説と、大山詣での 「大山道」 であったという説がある。
ハッピーロード大山の左手に小さな御堂の真宗大谷派の紫雲山瑞法寺がある。
瑞法寺は、瑞光院釈源成が昭和11年(1936)大山町に創建した歴史の新しい寺院である。
ハッピーロード大山商店街を抜けて、国道254号線に合流する手前右手の路地角に大山福地蔵尊入口標柱が建っている。
この標柱から20m程のところに地蔵堂があり、やや面長な地蔵菩薩が安置されている。傍らには御身洗地蔵尊が祀られている。
国道254号線に合流して間もなく日大病院入口交差点のところから右に入る旧道口がある。
この先は下頭橋通り共栄会の商店街が続いており、ここから上板橋宿へ入って行くが、往時の姿を残すものは見当たらない。

防災辻広場 轡神社 豊敬稲荷神社 萬福寺
街道を進むと右手に防災辻広場の標柱が建ったポケットパークがあり、ベンチの前に井戸ポンプがある。 防災辻広場を右に曲がって、二つ目の十字路を左に入ると轡神社がある。
江戸時代には轡権現と呼ばれ、名前の由来については徳川家康が領国をめぐった際にこの地で馬の疲れを休め、あとに残された 「くつわ」 を祀ったからとも言われている。江戸時代から百日咳などに霊験のある神として信仰を集めている。
境内には、轡神社の道標2基と大乗妙典六十六部廻國供養塔が建っている。
街道に戻ると直ぐ右手に豊敬稲荷神社がある。
境内にある記念碑によると、創建は江戸時代末期から明治初期と言われる。当時は市神様として崇められていたが、時代の変遷により民家の隅に遷座されていた。その後、福本芳太郎氏により現在地に祠宇を建立し遷座したという。
豊敬稲荷神社の斜向かいの路地を進むと左手に真言宗豊山派の補陀落山萬福寺がある。
寺といっても堂宇がある訳ではなく、全く民家と言った方が良い。
狭い境内には地蔵菩薩・宝篋印塔・五輪塔・庚申塔などの石造物が並んでいる。

下頭六蔵菩薩尊 下頭橋 国道254号線合流 長命寺
石神井川の手前右手に下頭六蔵菩薩尊を安置した祠がある。
境内には、下頭橋の旧親柱、昭和4年(1929)の下頭六蔵菩薩尊碑、寛政10年(1798)の他力善根供養碑、文明2年(1470)の石塔などが建っている。
上板橋宿端を流れる石神井川に下頭橋が架かっている。
下頭橋は、明治37年(1904)の道路改修の際に木橋となり、大正13年(1924)頃再び石橋となったが、昭和3年(1928)に鉄筋コンクリート造りとなり現在に至っている。 
下頭橋を渡って左斜めの道を進むと、国道254号線に架かる板橋中央陸橋に出る。
ここからは国道254号線を進んで行く。
板橋中央陸橋交差点を渡った左手角地に真言宗豊山派の東光山医王院長命寺がある。長命寺の創建年代は不詳であるが、江戸時代の前期にはすでに創建されていたと言われる。江戸時代には、板橋天祖神社や東新町氷川神社を始め、付近の神社の別当でもあった。
境内には、元文元年(1736)の庚申塔・享保3年(1718)の庚申塔・安永4年(1775)の地蔵尊などの石造物がある。

天祖神社 南ときわ台公園 氷川神社 旧道口
長命寺を出て次の信号を越えた右手の路地を入って行くと板橋天祖神社がある。
天祖神社の創建年代等は不詳であるが、この辺り一帯が豊島氏によって開拓されたことから、室町時代には神社の形態をなしていたと考えられている。
境内には、榛名神社・日枝神社(権現社)・月読神社・伊勢神社・稲荷神社・北野神社などの境内社がある。
天祖神社から街道に戻る途中右手に南ときわ台公園があり、街道に近い所に板橋区制施行50周年記念碑が建っている。
記念碑には、次のように刻まれたいる。
「この公園は、板橋区が誕生してから50年目の記念すべき年に造られました。みどり豊かなまちづくりを進めている板橋区の象徴として、この公園を愛し、次の世代に伝えていきましょう。昭和57年10月1日」
街道に出て南常盤台歩道橋を渡り、その先の信号で左の道を入って行くと東新町氷川神社がある。
氷川神社の創建年代は不詳であるが、主祭神は速須佐之男命で、境内には榛名神社・天満宮・稲荷神社の境内社がある。
街道に戻って先に進むと、右手に斜めに延びる旧道がある。
旧道を先に進んで行くと、上板橋南口銀座商店街となる。

子育地蔵尊 下練馬宿入口 宿稲荷神社 下練馬宿案内
商店街の左手にある八百屋さんの隣に子育地蔵尊堂がある。
御堂には、貞享5年(1688)と安永6年(1777)の二体の地蔵菩薩が安置され、それぞれに 「天下泰平五穀豊穣」 と刻まれ、祠の前には新しい地蔵菩薩も建っている。
上板橋二丁目信号交差点を過ぎると、その先の変則五叉路に下練馬宿の横断幕が下がっている。
ここは下練馬宿の入口であり、この五叉路の左角に一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。
五叉路に建つ庚申塔を左に入ると右手に宿稲荷神社がある。
宿稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には昭和15年(1940)の狛狐、内閣総理大臣佐藤栄作書の英霊之碑などがある。
街道に戻ると直ぐ先左手に野瀬米店があり、店の脇に下練馬宿案内板が建っている。
案内板には、「ここ北町は、練馬区唯一の宿場町として栄え、現在も商店街が続いている。この辺りは下宿と呼ばれ、鍛冶屋、紺屋などがあり、江戸時代鷹狩の餌となる 「けら」 を扱う 「けらや」 もありました。板橋宿の境には、王子、戸田への道標となる馬頭観音の祠が道路の中央にあります。等々」 記載されている。

大山道道標 清性寺 浅間神社 北町観音堂
環状8号線のトンネルの上に大山道道標と東高野山道標が建っている。
大山道道標は、宝暦3年(1753)に建てられたもので上部に不動明王が乗っており、東高野山道道標は、紀伊の高野山を模して建てられた長命寺への道標である。
先に進むと浅間神社の脇に神明山観音院清性寺がある。
清性寺の創建年代等は不詳であるが、江戸時代初期から存在しており、明治初期までは鐘楼もある広大な敷地であったという。
現在は、小さな本堂に弘法大師像が安置されており、その隣に豊臣秀吉の守り神であったといわれる狐の像が浮かび上がった霊石を安置し白狐稲荷社がある。
清性寺に隣接して浅間神社がある。
境内には、標高37.76mの富士塚があり、一合目から九合目まで標柱が建てられ、塚上に奥宮がある。
富士塚の隣には、境内社の天祖神社が建っている。
浅間神社から程なく東武練馬駅の入口にあたる角地に北町観音堂がある。
ここには、天和2年(1682)銘の 「北町聖観音座像」 をはじめ馬頭観音や庚申塔など数多くの石造物がある。江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文 「遊歴雑記」 にも、文化12年(1815)にここを訪れた記述があり、往来の人々の信仰や赤塚村への分岐道の目印となっていたことが分かる。

安養寺 国道254号線合流 騎馬武者像 庚申塔
北町観音堂の前のT字路を南に50mほど進んだところに大日山安養寺がある。
安養寺の創建年代等は不詳であるが、新しい本堂には大日如来が祀られている。
街道に戻って進むと宇都宮バイパスの上を通り、その先で国道254号線に合流する。 国道254号線に合流して間もなく、東京メトロ有楽町線の赤塚駅1番出口脇に騎馬武者像が建っている。
台柱は道標になっており、「鎌倉古道 至はやせ 至かまくら」 と刻まれており、「はやせ」 は荒川の対岸にあった 「早瀬の渡」 のことである。
街道を進み、成増二丁目信号交差点を過ぎると、横断歩道橋の手前右手に天明3年(1783)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。

氷川神社 旧道口 新田坂 八坂神社
庚申塔から直ぐ先の成増駅入口にあたる成増交差点を左に入ると右手に氷川神社がある。社殿覆屋に掛かる上赤塚氷川神社由来書によると、後花園天皇の長禄元年(1457)に、赤塚城主千葉介自胤氏が武蔵一之宮氷川神社(大宮市)の分霊を勧請した神社である。 街道に戻ると右手のビックボーイ成増店の前から国道254号線と並行した旧道がある。
旧道を進んで下り坂(新田坂)になると、左の国道254号線との間に子育地蔵尊・道祖神・常夜燈などの石造物群がある。 新田坂を下りると左手の段上に八坂神社がある。
八坂神社は、境内の案内板によると京都の八坂神社を勧請したといわれ、「天王さま」 とも呼ばれており、御祭神は、素戔嗚尊と稲田比売命である。

白子橋 地福寺 熊野神社 青龍寺不動院
八坂神社を過ぎると程なく白子川に架かる白子橋がある。
白子川は、東京都練馬区東大泉の区立大泉井頭(いがしら)公園から始まり、大泉学園町などを経て、ここ埼玉県和光市白子を流れ、再び東京都板橋区成増と流れて新河岸川に合流する。
白子橋の親柱には、作詞者清水かつらの 「靴が鳴る」 のプレートが埋め込まれている。
白子橋の先の十字路を越えて、直ぐ右の細道を進むと左手に天台宗の瑞應山地蔵院地福寺がある。
地蔵寺の創建年代は不詳であるが、尊恵上人が開基となり永延年間(987-988)に開基したと言われている。
境内には、本堂内陣に安置された 「枕返地蔵尊」 の働きをするという石神大権現・庚申塔などがある。
街道に戻って十字路を先に進むと右手に熊野神社がある。
熊野神社の創建年代等は不詳であるが、境内の由緒によると、紀伊國那智山に伝わる那智中世文書の中にある天文年間(1532-54)の 「武蔵国檀那書立」 の中に 「しらこ庄賀物助 庄中務丞」 という記述があり、当時の白子では熊野信仰の布教が進んでいたといわれる。
熊野神社の西側に隣接して神瀧山青龍寺不動院がある。
本能寺の変で織田信長が自害した時、大坂にいた徳川家康は、伊賀の忍者服部半蔵の手引きで、三重の白子の浜から難を逃れた。この白子と同じ地名の此の地一帯を領地として与え、青龍寺を出城として、日々江戸城の警護に当たらせたという。境内には、白菊稲荷大明神を祀った洞窟・不動滝(近くには入れない)がある。

大坂 柳下家 武蔵御嶽神社 庚申塔
街道に戻って県道109号線を越えるとS字にくねった大坂と呼ばれる坂道になる。
大坂は白子宿を出て浅久保へ向う所の急坂であり、別名を白子大坂という。
大坂を上り切ったところで県道68号線(笹目通り)を横断歩道橋で渡り、その先の 「くらやみ坂」 を下った右手に真新しい門を構えた柳下家がある。
柳下家は、下新倉村の豪農であり、この地の領主であった旗本酒井氏より代々に渡って郷代官を任されてた。
柳下家の先を進み、㈱伯楽製鋲所の向かいの路地を入って行くと淺久保地区集会所の裏手に武蔵御嶽神社がある。
鳥居を潜って進むと中央に富士塚(浅間神社)があり、その右手に稲荷神社があって、富士塚に背を向けるように武蔵御嶽神社がある。
街道に戻って県道109号線に合流すると、十字路角にあるリカーショップ田村屋の庭先に慶應2年(1866)の庚申塔が建っている。

御嶽榛名神社 旧道口 南栄八幡神社 旧道口
直ぐ先で県道88号線を横断歩道橋で渡り、和光市駅入口交差点を越えた次の十字路を右に進むと御嶽榛名神社がある。
境内にある遷宮碑によると、昭和27年に新倉庚塚からここ鈴森に遷宮されたが、旧社は老朽化で破損が酷かったため、昭和49年に本殿等を新築したという。
街道に戻ると本町小学校入口交差点を越えた右手に旧道がある。
この旧道は150m程先で県道109号線に合流する。
県道109号線に合流して間もなく、左手の朝霞ひだまりの森保育園の脇の狭い道を入ると南栄八幡神社がある。
南栄八幡神社は、境内の由来碑によると、昭和35年鎌倉鶴ヶ岡八幡宮から分神された神社である。
街道に戻ってどんどん進むと、幸町3丁目交差点の先で右手に旧道がある。
この旧道は100m程先で県道79号線に合流する。

神社 膝折不動尊 一乗院 膝折宿脇本陣跡
狭い旧道を進むと右手の段上に赤い鳥居の小社があるが、何の神社かは不明である。 県道79号線に合流する手前にある㈱阿部製作所の前に膝折不動尊がある。
膝折不動尊の由来は不詳であるが、覆屋に不動明王が安置されている。
県道79号線に合流して間もなく右手に真言宗智山派の並流山一乗院平等寺がある。
一乗院の創建年代は不詳であるが、境内の案内板によると、武蔵国(現在の入間郡)に高麗郡が設置された霊亀2年(716)の後戦乱があり、主将は討たれたが戦乱を逃れた家臣5人(高麗氏)が十一面観音菩薩を勧請安置して一宇を建立したのが始まりと云われ、当時は観音寺と呼ばれていたという。
街道に戻ると直ぐ先右手に膝折宿脇本陣跡の高麗家住宅がある。
高麗家は、膝折宿の中心部に位置し、屋号を 「村田屋」 と称して旅籠を営んでいた。建物の建設年代は、建築様式等の特徴から18世紀末頃の安永~天明(1772~1789)の頃と推定され、現在でも当時の旅籠の建築様式が残されており、川越街道膝折宿の面影が残る貴重な建物である。

膝折宿本陣跡 一乗院閻魔堂 大橋 庚申塔
脇本陣の直ぐ先左手に膝折郵便局があり、その横にある牛山家が膝折宿本陣跡である。
門柱の奥に住居があり、玄関前に 「朝霞市指定有形文化財牛山家文書」 と刻まれた石碑と標柱が建っている。
先に進んで膝折町一丁目五叉路を斜め右に進むと一乗院閻魔堂がある。
かつて一乗院の阿弥陀堂があったところであり、閻魔堂には阿弥陀如来を中心として、右手に閻魔像と馬頭観音、左右に仁王像が安置されている。境内には、地蔵菩薩・庚申塔・馬頭観音などの石造物がある。
五叉路に戻って県道109号線と分かれて、左に進むと黒目川に架かる大橋がある。 大橋を渡るとその先のY字路中央に元文元年(1736)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。
川越街道は、ここを左に進み、たびやの坂を上がって行く。

たびやの坂 横町の六地蔵尊 平林寺寺標 平林寺
庚申塔を左に進むと結構急勾配な 「たびやの坂」 となる。
坂の名前は、昔、坂の途中に足袋屋があったことに由来するという。また坂全体が朝霞市と新座市の境界になっている。
坂を上がり切るとその先の道は狭くなり、200m程先で県道109号線に合流する。
県道109号線に合流して間もなく、左手に横町の六地蔵尊が安置されている。
覆屋には、六地蔵尊の他に一面六臂の青面金剛の庚申塔・地蔵菩薩があり、覆屋の脇には大乗妙典六十六部供養塔が建っている。
街道を進むと野火止大門交差点の角に金鳳山平林禅寺と刻まれた寛延3年(1750)の平林寺寺標が建っている。
平林寺は、ここから1.5km程南にあるが、街道を離れて寄って行くことにした。
平林寺は、関東地方でも名高い古刹の一つで、開山は当時鎌倉建長寺の住持をしていた石室善玖禅師である。
開山当時は、現在のさいたま市岩槻区にあったが、寛文3年(1663)、川越藩主松平伊豆守信綱の遺志を継ぎ、その子輝綱によって野火止の地に移された。
八雲神社 武蔵野線 神明神社
街道に戻って野火止大門交差点の先を進むと、右手の白洋舎の隣に八雲神社がある。
境内にある案内板の文字は完全消えており、由緒などは不明であるが、八雲神社石祠の台座には寛政10年(1798)野火止惣邑中と刻まれている。
八雲神社の先で街道をJR武蔵野線が横切っている。
武蔵野線は、もともと貨物専用線として計画されたものであるが、沿線の人口増加に伴い拡張され、旅客営業線として神奈川県鶴見区から千葉県船橋市を結んでいる。
武蔵野線を過ぎると右手に野火止の神明神社がある。
神明神社の創建年代は不詳であるが、野火止宿上分の鎮守として野火止宿が開発された頃に創建されたという。
境内には、文久元年(1861)の手水鉢、正徳4年(1714)の庚申塔、天保13年(1842)の常夜燈などの石造物がある。本日は、ここで終了し最寄りのJR武蔵野線の新座駅から帰路についた。

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