「智恵伊豆」 と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、同6年、久綱の弟で徳川家一門である
「長沢松平」 氏を相続していた松平正綱の養子となり、同9年7月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附の小姓となった。
元和6年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」 を興した。同年500石、同9年小姓組番頭となり、加増されて800石を知行。同年7月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位伊豆守に叙任した。
寛永元年(1624)信綱は2千石となり、同4年には一挙に8千石の加増をうけて1万石を領した。さらに同7年には5千石を加増されている。この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年11月に信綱は老中並となり、安倍忠秋・堀田正盛らとともに六人衆に任ぜられ、幕政に参画する。ついで10年5月、信綱は1万5千石加増の上、武蔵忍城主となり3万石を領し、さらに12年11月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。
こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。
寛永14年10月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。その功によって同16年川越城に転封され、3万石の加増をうけて6万石を領した。同20年、侍従に進み、正保4年(1647)1万5千石を加増され、その所領は合せて7万5千石となった。
信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今の名相とも謳われる一方、郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、川越街道の整備なども行っている。
また、承応4年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った。
信綱は、この野火止台地開発とともに所領の野火止村に、菩提寺である岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文2年(1662)3月16日に逝去した。享年67歳。法名は松囃子院殿乾徳全梁大居士。
初め、岩槻の平林寺に埋葬されたが、この輝綱が父信綱の遺命を守り、翌3年に平林寺の伽藍および墓石にいたるまで、現在地に移建したため、改葬されたものである。
新座市教育委員会
玉川上水の工事中に失敗があったが、老中で川越藩主の松平信綱は将軍家光の計画を尊重し、測量に詳しい家臣の安松金右衛門に設計のやり直しなど、玉川兄弟の補佐役を命じ、羽村を取水口とした玉川上水の竣工に導いた。
丹波国の生まれで松平信綱に仕え、家老職となり川越藩の藩政を充実させた。野火止用水開削時の家老であることから平林寺に葬られた。
安松金右衛門の墓
信綱公夫人の墓
小畠助左衛門の墓
松平伊豆守信綱の墓
島原の乱を松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔である。
見性院宝篋印塔
前田卓(つな)の墓
増田長盛の墓
放生池と弁財天堂
経蔵
鐘楼
境内の紅葉を見るため混雑した茅葺の総門前
松平伊豆守信綱公墓誌
平和観音 (聖観世音菩薩)
見事な紅葉
戴渓堂
御堂に掛かる戴渓堂(たいけいどう)の扁額
<黙雲和尚の書>
厨子に聖観世音菩薩・右に明から来朝した独立禅師の像が安置されている
平林寺本堂
茅葺の中門
本堂に掛かる平林禅寺の扁額
<江戸初期の文人石川丈山の揮毫>
茅葺の仏殿
仏殿に掛かる無形元寂寥(むけいもとせきりょう)の扁額 <江戸中期の書家三井親和の揮毫>
仏殿内陣
<本尊釈迦如来坐像、脇侍は迦葉尊者と阿難尊者>
松平家所縁の五輪塔が数多く並んでいる
夏目漱石の小説 「草枕」 に登場する熊本小天温泉の美人 「那美」 のモデルと言われる。
豊臣秀吉に仕え、五大名に列し、大和郡山20万石を与えられた。
戒名見性院殿高峯妙顕大姉は武田信玄の娘である。
文久元年(1861)の島原の乱供養塔
地蔵菩薩半跏像
山門に掛かる凌霄閣(りょうしょうかく)の扁額
<江戸初期の文人石川丈山の揮毫>
吽形の仁王像
350年以上前の仁王門の茅葺の山門
阿形の仁王像
国道254号線の新座警察署交差点前に建つ平林寺寺標
総門に掛かる金鳳山(きんぽうざん)の扁額
<江戸初期の文人石川丈山の揮毫>