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川越街道  (野火止~川越)


平成28年12月2日(金)   ☀|☁   野火止~川越  16.0㎞
本日は前回の続きで、野火止から大和田宿、大井宿を経て川越宿迄の街道歩きで、前回とほぼ同距離の行程であり、国道254号線とその脇道が半々程度となる。川越に入ると多くの寺社仏閣があるので、それらは又の機会に寄ることとし、今回は川越街道の終点である川越市役所までの主だった寺社仏閣に寄って行く。

日の出直後の街道 鬼鹿毛の馬頭観音 地蔵菩薩 地蔵菩薩
JR武蔵野線の新座駅から北上して街道に出ると、夕暮れのように建物の長い影が街道に延びている。 街道に出ると間もなく右手の段上に覆屋があり、中に元禄9年(1696)の三面六臂の馬頭観音が安置されている。
傍らには、嘉永4年(1851)の手水鉢・馬頭観世音大護摩紀念碑・馬頭観世音拝禮塔が建っている。
馬頭観音から程なく左手の路地の先の墓地に享保13年(1728)の地蔵菩薩立像と天明2年(1782)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。
この2基は、最近まで街道脇に建っていたものである。墓地の一角には、大乗妙典廻国供養塔・地蔵菩薩・石燈籠などの石造物がある。
街道に戻って進むと、大和田郵便局の路地を挟んだ向かいに御堂らしき建物があり、建物前に享保4年(1719)の地蔵菩薩と明治34年(1901)の手水鉢がある。

英(はなぶさ)橋 旧家 富士塚 川越街道碑
先に進むと国道254号線に合流したところに柳瀬川に架かる英橋がある。
柳瀬川は、狭山湖近辺の沢を源流として、ほぼ埼玉県と東京都の境を流れて、新河岸川に合流している。英橋からは富士山を見ることができる。
柳瀬川を越えると左手に石塀に囲まれたお城のような造りの旧家がある。 旧家の先で緩やかな坂道を上がって行くと、やや左カーブの段上に富士塚がある。
急な石段を上ると玉垣の中に 「三国第一山」 と刻まれた富士登山の大願成就の石碑が建っている。斜面も含めた周囲には、御中渡修行と刻まれた石碑や太々御神楽と刻まれた石碑が建っている。
坂道を上がり切って左右に畑が多くなってくると、その先でケヤキなどの木が植えられた分離帯があり、中央に川越街道碑が建っている。
旧街道は車線の右側(上り車線)であり、先に進んだ木宮稲荷神社の幟立てが、中央分離帯に残されている。黄色く色づいたケヤキ並木を進むと、所々で左手に富士山を望むことができる。

木宮稲荷神社 川越街道碑 広源寺 川越街道碑
三芳町役場入口交差点を過ぎると左手に木宮稲荷神社がある。
木宮稲荷神社は、寛文元年(1661)東都の中山治左衛門が大阪在番の際、稲荷神の霊夢を見て社殿を再建したと伝えられている。
境内には、山神社と明治43年(1910)に移されてきた浅間神社・八坂神社がある。
木宮稲荷神社の直ぐ先でケヤキ並木は終了し、中央分離帯の先端に川越街道碑が建っている。 街道を先に進むと左手に曹洞宗の大栄山広源寺がある。
広源寺は、寛永16年(1639)龍国呑海大和尚を開基として創建され、明治7年(1884)には藤久保小学校が開設された。
境内には、白山宮の御堂、普門品供養塔、お願い観音、子育水子地蔵尊などがある。
広源寺の先の藤久保交差点を越えると、再びケヤキ並木が始まり、中央分離帯の先端に川越街道碑が建っている。
この並木道は500~600m程しかないが、ケヤキ並木に松なども混ざって、街道の面影を残している。

大井稲荷神社 大井戸跡 徳性寺 大井宿本陣跡
ケヤキ並木を過ぎると、東台小学校入口信号交差点の直ぐ先右手の林に大井稲荷神社がある。
境内にある案内板によると、大井稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、昔から 「坂上の稲荷様」 と呼ばれ村民に親しまれ、江戸時代初期には既にあったという。明治40年(1907)他の神社と共に大井氷川神社に合祀されたが、その後、昭和41年(1966)に元の場所に本社が再建されたという。
大井稲荷神社の直ぐ先に建つ 「大井弁天の森」 標識を右に入ると、石垣の中に大井戸跡がある。
この井戸は 「大井町」 の町名の由来となった井戸で、平安時代に掘られたものと推定されている。
大井弁天の森入口の向かいに天台宗の天龍山本乗院徳性寺がある。
境内の解説によると、徳性寺は室町時代に秀山律師により開かれたと云われ、一時衰退するが江戸時代前期、第14世祐円和尚により中興された。明治14年(1881)1月の大火により本堂、庫裡などの建造物と共に当時の歴史を記した記録も失われてしまった。境内には、石塔畑と呼ばれる場所から出土した板石塔碆や地蔵菩薩がある。
徳性寺を過ぎると程なく左手に大井宿本陣跡がある。
ここは代々名主役を勤めた新井家であり、本陣には問屋場もあり、江戸時代中期の宝永2年(1705)の 「大井町明細帳」 によれば、家数947軒・人口497人であったという。ここには大井宿本陣跡標柱と大井宿本陣の解説板が建っている。

旧大井村役場庁舎 旧道口 阿夫利神社常夜燈 地蔵院
大井宿本陣跡を過ぎて東入間警察入口交差点を越えると、左手のふじみ野市立大井小学校の一角に旧大井村役場庁舎がある。
旧役場庁舎は、昭和11年(1937))に建築された2階建て建物で、平成14年2月に国の登録有形文化財に指定された。
旧大井町役場庁舎の直ぐ先で、Y字路左手に旧道が延びている。 旧道を進むと 「角」 と呼ばれる地蔵街道との交差点に阿夫利神社常夜燈が建っている。
この常夜燈は、享和2年(1802)に建てられたもので、丹沢の霊峰大山の阿夫利神社へ参詣する際に、亀久保村から最初の曲がり角に建つ常夜燈である。
正面に 「奉納阿夫利神社常夜燈」、側面に 「大山 武蔵野地蔵 ところさわ 道」 と刻まれている。
街道を進むと右手に真言宗智山派の佉羅陀山地蔵院薬王寺がある。
地蔵院は、正和3年(1314)覚応の開基と云われており、武蔵野地蔵尊とも呼ばれている。鎌倉~南北朝時代の武将二階堂氏が、鎌倉末期の武蔵野の戦の折に不思議な霊験を見たので再興し祈願寺としたという。
境内には、推定樹齢380年を超えた枝垂桜、薬師堂、子育水子地蔵尊、ぼけ封じ地蔵尊などがある。

神明神社 ケヤキ並木 旧道口 鶴ヶ岡厄除地蔵尊
街道が国道254号線に合流する手前左手に亀久保神明神社がある。
神明神社の正確な創立年代は不詳であるが、慶長3年 (1598) の創立で天照大神を祀り、 当初より村の産土神として崇敬されている。 新編武蔵風土記稿などから、地蔵院が神明神社の別当をつとめていた事が分かっている。
境内には、稲荷神社・八坂神社の境内社、力石40貫(160Kg) と30貫 (120Kg) の2石がある。
神明神社のところで国道254号線に合流して、亀久保交差点を越えると三度中央分離帯のあるケヤキ並木道となる。 ケヤキ並木が終わる所に川越市藤間歩道橋があり、その左に旧道口がある。 旧道口の左手に鶴ヶ岡厄除地蔵尊がある。
この地蔵尊は、鶴ヶ岡発生を語る芝開き地蔵尊と言われ、地蔵尊の右側に 「元禄7(1694)甲辰年十月九日武蔵入間郡鶴ヶ岡邑」 と刻まれている。

鶴ヶ岡八幡神社 石祠 藤馬中宿跡碑 東光寺
地蔵堂の前を10m程進むと右手鶴ヶ岡八幡神社がある。
鶴ヶ岡八幡神社の創建年代等は不詳であるが、ここ鶴ヶ岡の鎮守であり、境内には稲荷社・御嶽社と文化8年(1811)と刻まれた八坂神社石祠がある。
旧道口に戻って先に進むと、左手の空き地の中央に赤く塗られた石祠がある。
石祠の中に狛狐が並んでいるので稲荷社と思われる。
街道右手の 「いもせんべい新井製菓」 の藤棚の下に藤馬中宿跡碑が建っている。
大井宿と川越宿の間にあった宿場で、地名は明治に入って藤馬から藤間に改名された。
街道を進むと左手段上に曹洞宗の医王山東光寺がある。
東光寺の創建年代等は、境内にある東光寺開山史碑に刻まれており、江戸時代初期から元禄年間(1688~1704)まで藤間村の地頭だった米津彦七郎が慶長15年(1610)に開基したもので、寛永2年(1625)に僧舟海久呑が中興開山となった。
山門脇には金比羅堂があり、境内には東光寺開山史碑・米津氏系図碑などが建っている。

開明地蔵尊 半鐘櫓 吉田神社 庚申塔
東光寺を過ぎると程なく左手に覆屋に安置された開明地蔵尊がある。
この地蔵尊は、この地にあった川越藩の御仕置場に置かれていた宝永6年(1709)3月に建立された地蔵尊であり、別名 「首切り地蔵尊」 と呼ばれている。
開明地蔵尊の直ぐ先右手にある藤間上自治会防災隊備品庫の上に立派な半鐘櫓が建っている。 街道を先に進むと川越市立高階中学校の街道を挟んだ向かいの高台に吉田神社がある。吉田神社の創建年代等は不詳であるが、川越の伝説に残る吉田治兵衛政次翁命を祭神として祀っている。
砂新田で落雷や集中豪雨等の被害が無いのは、榛名神社に祈願して授かった子が成長して龍神となり、その龍神が治兵衛塚のあるこの地域を避けるからだと言い伝えられている。
街道に戻ると直ぐ先左手にある覆屋の中に、一面六臂の青面金剛の庚申塔と馬頭観世音2基が安置されている。


春日神社 御代橋 長田寺 烏頭坂
庚申塔の先を進み、いちょう通りを越えて更に進むと右手に春日神社がある。
春日神社は、慶安年間(1648-52)の創建と伝えられ、祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と、比売神(ひめのかみ)、経津主命(ふつぬしのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)であり、本殿は川越市指定有形文化財に指定されている。境内には、稲荷社社・八坂神社の境内社がある。
春日神社から程なく不老川に架かる御代橋(ごだいばし)がある。
不老川は、狭山湖の伏流水が水源とされ、かつては 「年不取川(としとらずがわ)」 と称されていたという。
御代橋を渡って間もなく左手に曹洞宗の長田寺がある。
長田寺の創建年代等は不詳であるが、境内には宝暦5年(1755)の宝篋印塔、享保15年(1730)の地蔵菩薩などがある。本堂は改修中でブルーシートで覆われていた。
長田寺の先で信号交差点を越えると烏頭坂(うとうざか)の坂道となる。
坂の左手にある熊野神社への参道入口に案内板があり、往時は杉並木で鬱蒼としており、新河岸川から荷揚げされた荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていたという。

熊野神社 岸町二丁目山車庫 新宿町北交差点 浅間神社
烏頭坂の左手の高台に熊野神社がある。
熊野神社の創建年代等は不詳であるが、境内には御嶽神社・八海山神社・三笠山神社などが祀られた御嶽塚、月見稲荷神社などの境内社がある。
熊野神社を出ると国道254号線に合流する手前左手に、岸町二丁目木花咲耶姫の山車庫が建っている。
この山車は、毎年10月の第3土日に行われ川越まつりで使われるものである。川越まつりは、江戸 「天下祭」 を今に再現した山車行事であり、精巧な人形を乗せた絢爛豪華な山車が蔵造りの町並を曳き廻される。
国道254号線に合流して直ぐ、国道16号線との交差点である新宿町北交差点でJR川越線・東武東上線を越えて、県道39号線に入って行く。 県道39号線に入って直ぐ右手の路地を進むと浅間神社がある。
浅間神社は、康平年間(1058-65)源頼義が奥州征伐の途中に分霊したの始まりで、その後は、長禄元年(1457)に太田道灌が再営、永禄9年(1566)北条氏の中山角四良左衛門が再興したという。社殿がある小山は、浅間神社古墳で、高さ約5m、周囲42mである。境内には、風神・金比羅神・疱瘡神などの境内社石祠と富士山噴火口を表した穴がある。

富士見町ポケットパーク 妙善寺 菅原神社 川越八幡宮
街道に戻ると直ぐ先のY字路中央に富士見町ポケットパークがある。
ここには川越街道けやき並木が、川越景観100選に選ばれたことを記念したモニュメントが設置されている。
富士見町ポケットパークから程なく左手に天台宗の道人山三心院妙善寺がある。
妙善寺は、天台宗中院の尊能法師により、寛永元年(1624)法師の父母の菩提寺として建立された。
本堂には、小江戸川越七福神の毘沙門天が祀られ、境内には芋を抱いた川越さつまいも地蔵尊が安置されている。
妙善寺に隣接して菅原神社がある。
菅原神社は、隣接する妙善寺を開いた尊能法師が、妙善寺の境内に天神社として勧請したのが始まりという。その後、大正2年(1913)天神社に稲荷神社を合祀して菅原神社と改称した。
境内には、天文18年(1549)に創建された六塚稲荷神社がある。六塚稲荷神社の社殿は、かつての天神社社殿である。
街道を進み三番町交差点で三番町通りを越えると、左手に川越八幡宮がある。
川越八幡宮は、第68代後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられている。長禄元年(1457)川越城が完成すると、太田道灌は川越八幡宮の分霊を川越城内の守護神として奉斎した。
境内には、菅原神社・稲荷神社・三峯神社などの境内社がある。

光西寺 中院 南院跡 仙波東照宮
川越八幡宮を過ぎて、右手の通町歯科医院の角を東に200~300mほど進むと、浄土真宗本願寺派の緇川山成就院光西寺がある。
光西寺は、永禄9年(1566)石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。その後、幕政に違反した藩の左遷転封に伴って、島根県、福島県そして現在地へ移転した。山門には見事な彫刻が施され、屋根を小さな力士像が支えている。
光西寺の北側に天台宗の別格本山中院がある。中院は、喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。
元々、星野山無量寿寺の中に北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院・仏地院・多門院と称していた。当所の中院は、現在の東照宮の地に有ったが、寛永10年(1633)東照宮建造のため現在地に移された。境内には、秋元候の家老太陽寺一族の墓、狭山茶発祥の地碑などがある。
中院を出て北に進むと東照宮中院通りの十字路右手に南院跡がある。
南院は、中院と同じく天長7年(830)慈覚大師によって創立され、多門院と称していたが、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となった。
現在、この一角には、供養塔・墓石・地蔵菩薩像・観音菩薩像などが雑然と置かれている。
南院跡地の直ぐ先に仙波東照宮がある。
仙波東照宮は、元和3年(1617)徳川家康の遺骸を久能山から日光へ運ぶ途中、喜多院で遺柩止留となったことにより、天海僧正が家康公像を喜多院大堂に祀ったのが始まりと言われる。
その後、寛永10年(1633)に社殿を造り、後水天皇が宸翰御神号として 「東照大権現」 の勅額を下賜されたが、寛永15年(1638)の川越の大火で焼失してしまった。拝殿・本殿は塀に囲まれているが、周囲を巡ることは出来る。

喜多院 鉤の手跡 出世稲荷神社 川越キリスト教会
仙波東照宮に隣接して天台宗の星野山無量寿寺喜多院がある。
喜多院は、天長7年(830)慈覚大師によって創立され、江戸時代初期には、天海大僧正が第27世住職を勤めている。
境内には、江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物のほか、六角太子堂・多宝塔・慈眼堂・大黒天堂などの堂宇がある。
東照宮中院通りから街道に戻ると、直ぐ先に鉤の手(桝形)がある。
この鉤の手(枡形)を越えると街道沿いに趣ある蔵が所々に建っている。
枡形を過ぎて左手一本目の路地を入ると、右手に出世稲荷神社がある。
出世稲荷神社は、天保2年(1832)地主立川氏が屋敷鎮守として、京都伏見稲荷神社本宮より分祀した神社である。
境内には推定樹齢600年のイチョウの木が2本あり、通称 「いちょう稲荷神社」 と言われている。
街道に戻り、松江町交差点を越えて先に進むと、右手にレンガ造りの川越キリスト教会が建っている。
川越キリスト教会は、英国系のプロテスタント教会で、その始まりは明治11年(1878)であるが、当時の建物は、明治の川越大火で消失してしまい、現在の建物は、大正10年(1921)に再建されたものである。

旧江戸町碑 旧本町碑 川越市役所 川越城中ノ門堀跡
川越キリスト教会の直ぐ先で鉤の手となり、その左手のポケットパークに旧江戸町碑が建っている。
碑には、「川越城西大手門より、鉤の手までを指す。旧十ヶ町のうち上五ヶ町の一。城より江戸へ行くための起点となる町であるため江戸街道と呼ばれていたが、町の繁栄と共に江戸町と言われるようになった。ここは道路が二回直角に曲がる城下町特有の鉤の手跡である。」 と記されている。
市役所前交差点の右角に旧本町碑が建っている。
碑には、「本町は川越城の西大手の本通りである。古くは本宿といった所で、江戸時代から本町と呼んだ。ここは明治の頃に米穀商品取引所があった跡なので米商とも呼ばれていた。本町の四ツ辻は、昔、高札場があった所なので札の辻と言って、道路元標の基点とされていた。この本町を中心に昔は市店が立って繁栄した。」 と記されている。
市役所前交差点が川越街道の終点であり、交差点を渡ったところに、川越市役所がある。
川越役所前には、川越城図碑・川越城大手門跡碑・太田道灌像が建っている。
市役所前交差点から左は児玉街道となり、藤岡を経て中山道に繋がっている。
川越市役所前交差点を右に進むと、右手に冠木門が建っており、その奥に平成22年に復元整備された川越城内に残る唯一の堀跡がある。
堀は、現在の市役所付近に当たる西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり、堀と堀の間に中ノ門がかつて存在していた。

川越城本丸御殿 三芳野神社 時の鐘 薬師神社
川越城中ノ門堀跡を更に東に進むと、右手に川越城本丸御殿がある。
川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典(なりつね)が造営したもので、16棟、1025坪の規模をもっていたが、明治維新後次第に解体されていった。現存しているのは、玄関、大広間と移築復元された家老詰所のみとなっている。
川越城本丸御殿の斜向かいに三芳野神社がある。
三芳野神社は、平安時代初期の大同2年(807)に建立されたと言われ、川越城の築城当初から城内鎮守として歴代城主の崇敬を集めてきた.。また、この地は童謡 「とおりゃんせ」 発祥の地で、境内には 「わらべ唄発祥の地」碑のほか、川越城七不思議の碑などの石碑が建っている。
市役所前交差点から児玉街道に入って間もなく、札の辻交差点から本川越駅方向へ蔵造の町並みを見ながら進むと、左手筋に時の鐘が建っている。
今から約400年ほど前に当時の川越藩主だった酒井忠勝によって創建されたと言われている。その後、度重なる火災で焼失しており、現在のものは4代目に当たり、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたものである。
時の鐘の脇から奥に入ると建物に囲まれて薬師神社がある。
薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺であったが、明治維新の際に薬師神社となった。明治26年(1893)川越大火により時の鐘と共に焼失し、翌年に再建され、ご本尊は薬師如来立像で行基菩薩の作と言われている。
境内には、出世開運にご利益のある稲荷社、青面金剛碑・金比羅宮碑などの石碑がある。

蔵町並み
札の辻から仲町交差点にかけて南北430mに約70建の蔵造の商店が並んでいる。
この地域は、平成11年(1999)に文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
今回は、この先の西武新宿線本川越駅へ出て終了である。

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