明治30年(1897)の馬頭観音

貞享3年(1686)の薬師如来

正徳4年(1714)の一面六臂の青面金剛の庚申塔

川越街道案内板

第二次世界大戦戦没者慰霊塔

竿身が剥がれた常夜燈

観音堂 (馬頭観音)

三面六臂の馬頭観音

北町観音堂案内板

仁王門

文化3年(1806)の手水鉢

天和3年(1683)の吽形の仁王像

天和3年(1683)の阿形の仁王像

 この道は、むかし川越と江戸を結ぶ道路でした。室町時代の太田道灌の頃には、すでに開かれていて、北武蔵と南武蔵とを結ぶ重要な道でした。
 江戸時代、参勤交代でこの道を通った大名は川越藩主だけでした。したがって宿泊の必要が少なく、下練馬宿には大きな旅籠がありません。庶民を相手とした休み茶屋が数軒あった程度でした。
 「栗より(九里四里)うまい十三里」 は、川越芋の宣伝文句として有名ですが、江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51km)でした。
 この辺りは下練馬宿と呼ばれていましたが、交通の要所に石造物や道標があり、むかしの街道の雰囲気が残っています。 練馬教育委員会

寛延3年(1750)の一面六臂の青面金剛の庚申塔

台座には、卍と川越街道沿いの29の地名が刻まれている

北町観音堂  (聖観音)

天和2年(1682)の聖観音菩薩坐像