子育地蔵尊堂
貞享5年(1688)・安永6年(1777)の地蔵菩薩
子育て地蔵尊の由来
当地に安置されている地蔵は、通称 「子育て地蔵」 と呼ばれ、人びとに広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと桑原堰の一本橋(現在の桜川1丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享5年(1688)や安永6年(1777)といった造立された年号や、上板橋村桑原を中心として奉納者の名前が刻まれています。
明治初年に、これらの地蔵は川越街道に面した 「ガッカラ坂」 と呼ばれる当地に移されたと言われています。大正3年(1914)、川越街道と東上鉄道
(現在の東上線) の上板橋駅を結ぶ道 (現在の上板南口銀座) が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったと言われています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。
その当時、宝田豆腐店主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正12年(1923)頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和10年(1935)頃になると、半二郎氏の子息である宝だ源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。議員も三百名を数えたと言われています。
都市化が進んだ現在も、子育て地蔵は、人びとの素朴な願いを引き受ける仏様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、4月から9月にかけての7のつく日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。
平成19年(2007)7月7日 上板橋子育地蔵講
台座に子育地蔵尊と刻まれた地蔵菩薩