今から約580年前の享保4年(1432)9月、室町六代将軍足利教公が、駿府(静岡)から京都の館に帰る途中、この増楽にあった非常に大きく立派な老松を見て感嘆した。将軍に随行していた堯孝僧正が和歌に
   たが代にか 植えておきなの松の根に けふ顕はるる君が千とせぞ 
と詠んだ。その後、村人たちはこの松を 「於岐奈乃末都」 または 「「叟蘿之松」 と呼んだ。この美しく立派な老いたる松の生えている土地であるので 「叟蘿之松」 から 「叟蘿」、そして 「増楽」 と呼ばれるようになりました。
 このように 「増楽」 と呼ばれるようになった当地に縁ある先人のおかげで今の町の繁栄がある事を素直に感謝し、長い歴史の中には、この地域で地震津波等もあり、その犠牲となられた方々も数多く居られます。この町に縁故の諸霊御霊を慰霊申し上げ、併せて地域の繁栄・除災安全を祈願するために 「叟蘿魂」 を建立するものです。
 増楽町熊野神社

増楽のいわれ 「叟蘿魂」 解説

叟蘿魂碑

境内社の若宮神社

村社熊野神社社標

御神木

老松の根

常夜燈

拝殿奥に見える熊野神社本殿

拝殿に掛かる熊埜神社の扁額

熊野神社鳥居

鳥居に掛かる熊野神社の扁額

手水舎

熊野神社拝殿