徳川家康は、関ケ原の合戦(慶長5年=1600年)に勝利して天下統一後、五街道を整備し、東海道には江戸・京都の間に53の宿駅を整備した。しかし当時は宿の間は人家が少なく、幕府は通行の安全・街道の整備・農民の定着・収穫の増産等の目的で新田開発を奨励した。
 植田新田は、この頃一本松新田・助兵衛新田と共に開拓された新田で、遠州浪人の植田三十郎(生年不詳、寛文8年=1668没)を中心に堤防を築き干拓を計るも、泥の浮動の為に困難を極め、不成功に終わった。その後宝暦年間に、今井村の六郎左衛門の手で、再び開発が進められた。
 部落名は開拓の恩人の姓を取り、植田新田と名付けられ、又、三十郎新田とも呼ばれた。
 三十郎の墓(開祖一鑑榮心居士)は、安永7年(1778)9月に一族の手で、彼の開基とされる神護寺(臨済宗妙心寺派、幕末に廃寺)内に建てられ、住職の墓と共にあったもので、また、薬師堂南の松林の中には、「闘田人の墓」 がある。
  (植田自治会)

植田三十郎親忠墓標柱

植田三十郎墓所・薬師堂・清正公社・天神社の標柱

開祖一鑑榮心居士と刻まれた植田三十郎の墓

廃寺となった神護寺僧侶の墓

植田三十郎と植田新田由緒碑

植田踏切

天神社

嘉永3年(1850)の大乗妙典石経塔ほか