八幡神社本殿

拝殿内の川口市郎兵衛の強訴画

拝殿に掛かる八幡宮の扁額

 当青嶋八幡宮神社は江戸時代の初期、新田開拓されたばかりの青島村に於いて当時名主を務めていた川口家の屋敷神として応神天皇をお祀りした八幡様であったといわれます。
 時代が下って徳川五代将軍綱吉の代、延宝元和のころ高潮等自然災害に苦しめられていた大変な時代で近郷の農民もどん底の苦しい生活を強いられていたようです。そのような時に行われようとした過酷な検地を時の名主・川口市郎兵衛はその剛勇義気に富む性格で近隣庶民の為、断固としてこれを拒みました。これにより幕吏に捕らえられ磔刑に処せられたのです。その時市郎兵衛は29歳であったと言われます。
 それを知った村人らは大変哀しみましたが、為政者にとっては罪人であるので公には祀ることは出来ず、幕府を憚り密かに八幡神社に合祀しその大恩に感謝しつつ、磔八幡と呼び祀ってきました。
 江戸後期その罪は赦免され、村人はこの神社に川口市郎兵衛の命として祭神をお祀りしてまいりました。
 特に明治維新以後は、戦役ある毎に出征者は競って武運祈願をしたといわれます。また、諸々の祈願、ことに公事において霊験著しく参詣者が多かったと伝えれています。近時、個人による祭事に限界があり神社疲弊し荒廃の一途をたどってしまいました。平成18年青島町内会役員により神社中興の合議がなされ近隣の善男善女に後援していただく中、氏子組織を整え中興の事業を完遂し永くお祀りしていく礎といたしました。ここに碑を刻み後生に敬神の誠を記します。

八幡神社拝殿

鳥居脇の八幡神社由緒碑

天明3年(1783)の道標

三猿の刻まれた庚申塔

庚申神御神燈

参道入り口民家前の道祖神

「是より荒田○庚申道」と刻まれている

鳥居