依田橋村の一里塚解説

 慶長7年(1602)、徳川家康は東海道(五街道)に一里ごとに塚を築き榎や松を植え、旅人の憩いの場所としました。
 「田子の古道」 によると、元吉原宿時代には、田嶋村付近(現現港湾付近)に一里山を築いたとあります。
 その後、寛永16年(1639)、元吉原宿(現鈴川)から中吉原宿(現荒田嶋付近)に移転、その時、一里塚は 「日本分国絵図」 によると、津田村西側付近に描かれています。
 延宝8年(1680)、水害により中吉原宿は新吉原宿(現吉原商店街)に移りました。その時、一里塚は依田橋村の左富士神社の北側に描かれています(東海道分間延絵図)。
 江戸から34番目の一里塚です。
 また、依田橋村の一里塚について、「駿河新風土記」 は、「左右一つずつあり、駿河より、右の方の塚は、潮除堤の上に、左の方の塚は依田橋田の内にあり、壱畝歩ばかり」 とあります。
 現在、民有地になっているため、左富士神社の境内に、一里塚跡の石碑を建立しました。吉原宿と共に、この一里塚は三度所替えしたことになります。

依田橋村一里塚碑

文化3年(1806)東海道分間延絵図