天保7年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807-92)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年(1869)の春で、人々は 「スイホン」 と呼んだ。
 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ籠訴(かごそ)すること6度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(1687)に着工の運びとなった。それは計画の発案から27年目のことであった。
 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505m、幅7mの大規模な掘割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡形もなく壊された。平四郎の大計画は頓挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
   (富士市教育委員会)

増田平四郎の像・一里塚跡標柱

開墾増田平四郎翁碑

増田平四郎像

明治23年(1890)の為女鹿塚新田碑

広沼橋

増田平四郎とスイホン説明

交通事故防止祈願の地蔵尊

広沼橋の袂の増田平四郎像

昭和放水路に架かる広沼橋