お登勢は大津の公事宿 「舛屋」 を経営していた山本重助の次女で、伏見の船宿「寺田屋」六代目主人寺田屋伊助の妻となった。以後、寺田屋はお登勢が切り盛りして多くの幕末の志士の面倒をみた。
 元治元年(1864)8月1日京都の青蓮院塔頭「金蔵寺」でお龍と内祝言をあげた坂本龍馬は寺田屋お登勢にお龍を託す(お龍の回想録 『反魂香』)。慶應2年(1866)1月23日深夜、龍馬は寺田屋で伏見奉行所捕方の奇襲を受け、手傷を負いながらも逃げ延びて、以後、お龍と行動を共にする。この間約1年半、お龍はお登勢のもとで暮らしていた。
 そのお登勢の実家 「舛屋」 がこの地にあった。丸屋町宗門人別改帳からお登勢とその家族が確認できる。
 「舛屋」 はのちに兄が家督を継ぎ、町年寄りまで務めた。土地台帳から明治24年(1891)まで存在したことが解る。
 お登勢の両親の墓は、九品寺(大津市京町1-2-1)に現存する。

寺田屋お登勢実家升屋跡説明

お登勢の写真

寺田屋お登勢実家升屋跡碑

九品寺のお登勢両親の墓地図