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壬生街道   (喜沢追分~壬生


令和6年3月30日(土)   ☀   喜沢追分~壬生    12.0㎞
春らしさが増して桜の便りが届くようになり、今日は終日晴天が続くということなので、久し振りに街道を歩くこととした。選んだ街道は壬生街道である。壬生街道は日光街道から喜沢追分で分岐して、途中で例幣使街道と合流して、再び、日光街道に合流する総延長47㎞の道である。この道は徳川家綱の頃の将軍の日光社参に使われた道である。

喜沢追分 北辰妙見宮 喜沢西一里塚跡 桑57号古墳
日光街道から北東に分岐するのが壬生街道であり、この分岐点には男體山と刻まれた天保6年(1836)の道標を兼ねた石碑(再建)、馬頭観音、日清日露日支出征馬碑などの石造物が建っている。 喜沢追分の先で国道4号を渡り450m程進むと、左手には小山ゴルフクラブの木々が迫り、この右手に北辰妙見宮がある。詳細は不明であるが、神社であり、美術館でもあるとのことである。 小山ゴルフクラブ入口の直ぐ先に喜沢西一里塚跡がある。西塚はゴルフクラブ内にあり、往時の面影を残しているが、東塚は崩れていてよく判らない。。 喜沢西一里塚から程なく小山ゴルフクラブ内に桑57号古墳跡がある。街道か見える位置にあり、10m程ゴルフ場内に踏み込むと、古墳の説明版と古墳の史跡碑が建っている。

街道並み 子育地蔵尊 地蔵菩薩 扶桑歩道橋
小山ゴルフクラブを抜けると北に直進する道となり、街道脇には曽篠梨園、篠原葡萄園などの畑地が広がる。 桑57号墳から700m程先の右手筋角に地蔵祠があり、3基の地蔵尊が祀られている。地蔵祠には 「東島田子育地蔵尊」 の扁額が掛かっている。右側の地蔵菩薩半跏像は享保12年(1727)のもので供養塔のようである。 子育地蔵尊から100m程先の左手畑地の前に風化が進んだ2基の地蔵菩薩立像、如意輪観音像、聖観世音菩薩像が安置されている。 程なく扶桑歩道橋交差点(T字路)に突き当り、壬生街道はここを左折していく。

半田橋 Y字路 古屋敷古墳 妙典寺
扶桑歩道橋交差点を左折して200m程進んだところで姿川に架かる半田橋を渡っていく。姿川は宇都宮新里町に源を発し、小山市黒本で思川に合流するまでの40㎞程の一級河川であり、半田橋は姿川の最下流に架かる橋である。 半田橋を渡ると間もなくY字路となるが、壬生街道は右手筋を進んでいく。この先は左手に思川の土手が続き、右手は畑地が広がっている。 先に進むと右手にこんもりとした林が見えるが、これが古屋敷古墳であり、径18m、高さ3mの円墳である。塚上には七面大明神が祀られており、向かい側にある妙典寺の11代日満が身延から勧請したといわれている。 古屋敷古墳の街道を挟んだ向かい側に日蓮宗の長運山妙典寺がある。妙典寺の創建年代等は不詳であるが、本尊は魚籃観世音菩薩で、境内には宝暦2年(1752)の南無妙法蓮華経題目塔などの石造物がある。

摩利支天塚古墳 台林寺 天満宮 飯塚三十五号古墳
妙典寺から650m程先の右手筋(街道には古墳入口の標識が建っている)を180m程入って行くと突き当りに摩利支天塚古墳がある。古墳は前方後円墳で栃木県内で最大規模であり、墳丘上には摩利支天社が祀られている。 街道に戻ると150m程先の信号交差点の左手に天台宗の報恩山台林寺がある。台林寺は、元和年間(1620頃)、信祐法印によって創建されたと伝えられている。当寺は阿弥陀如来を本尊とし、墓所には壬生藩家老の九津見定利の墓がある。街道に面した枝垂れ桜は樹齢100年と言われ、門前には十九夜塔などの石造物がある。 台林寺の北側に隣接して天満宮がある。天満宮の創建年代等は不明であるが、境内には享保18年(1733)の石鳥居のほか、神輿庫、数基の石祠などがある。 街道に戻ると台林寺前の信号交差点の東側角に飯塚三十五号古墳がある。この古墳は、飯塚古墳群の中の一つで前方後円墳であるが、北側は道路により、南側と西側は建物を建てる際に削られている。

琵琶塚古墳 飯塚一里塚跡 下野国分寺跡 紫雲寺
飯塚三十五号古墳の前の通りを東に450m程進むと、左手の平地に双子山に見える琵琶塚古墳がある。この古墳は県内最大の前方後円墳であり、後円部の墳丘上に石祠が建っている。 街道に戻って台林寺前の交差点から800m程進むと左右に飯塚一里塚跡がある。この一里塚は壬生街道の飯塚宿と壬生宿の間に設けられたもので、道路の両側に残っているが、東側は昭和56年に修復したものである。 飯塚一里塚跡から500m程先の右手に下野国分寺跡がある。現在は、下野市天平の丘古公園として整備されているが、国分寺と国分尼寺跡は600m程の距離で東西に並んで発掘されている。国分寺跡と壬生街道の間には甲(かぶと)塚古墳があるが、木々が生い茂って全体の形は確認できない。 街道に戻ると直ぐ左手に真宗大谷派の光明山開華院紫雲寺がある。紫雲寺は、境内にある本堂落成記念碑によると、同行 「お似呂さん」 が蛇骨経塚に参拝し、退廃しているのを哀しみ、当時の壬生領主鳥居丹羽守に懇請し、越後国頚城郡国府から篤信の農夫(第二世住職釈大暢法師)を迎え一寺を建立したのに始まるという。

蓮華寺 愛宕塚古墳 栃木市 名残杉
紫雲寺から700m程先の花見ヶ岡交差点を左折して西に280m程進むと、右手に浄土真宗本願寺派の紫雲山蓮華寺がある。蓮華寺は、親鸞聖人が建保2年(1215)にこの地を訪れ、大蛇によって苦しめられていた人々を助け、阿弥陀如来の御教えを伝えたことから建立されたと云われている。 花見ヶ岡交差点に戻り、街道を右折して東に300m程進むと、左手に愛宕塚古墳がある。この古墳は、西南に面した前方後円墳で、基壇の上に墳丘を築き、基壇の裾部に周湟(しゅうこう)をめぐらしている。墳丘南側のくびれ部分に愛宕神社が祀られているため一部が削られている。 花見ヶ岡交差点に戻り650m程先に進むと下野市から栃木市に入って行く。。 栃木市に入って間もなく杉並木の名残杉が3本程立っている。この辺りは市町境が入り組んでおり、名残杉があるところは下都賀郡壬生町のようである。左手の杉の根元には供養塔の地蔵菩薩が建っており、歩道部には名残杉の切株がたくさん残っている。

御成橋 稲荷神社 壬生一里塚 縄解地蔵尊
所々にある杉並木の名残の切株を見ながら道なりに進んでいくと、黒川に架かる御成橋がある。黒川は、日光市南部の鳴虫山付近に源を発し、御成橋の下流で思川に合流している。 御成橋渡詰めの堤防脇に稲荷神社がある。稲荷神社は、左側の鳥居のある社殿であり、右の社殿は不明である。稲荷神社の向いには、神輿庫があり2基の神輿が収蔵されている。 御成橋から600m程進むと左手に壬生一里塚がある。壬生一里塚は、日本橋から数えて23里目の一里塚であり、徳川将軍が日光社参の際は壬生城主が、ここで出迎えるのが例であったという。現存するのは西塚だけであり、傍らに一里塚の説明版と一里塚標柱、縄解地蔵尊標柱が建っている。 一里塚にあった縄解地蔵尊880m標柱を頼りに一里塚の向いの筋を東に入って、所々にある縄解地蔵尊標柱に従っていくと、かなり入り組んだ道の先に縄解地蔵尊がある。縄解地蔵尊は、小槻彦五郎胤業(おつきひこごろうたねなり)が、この地に下向する際に京都から勧請して祀ったのが始まりと伝えられている。

宇第46号踏切道 壬生町道路元標 折本地蔵尊 枡形道
街道に戻って進み東武宇都宮線の宇第46号踏切道を渡っていく。 東武宇都宮線の第46号踏切道を渡ると直ぐ右手に大正8年(1919)の道路法の施行に伴って設置された壬生町道路元標が建っている。この場所は、壬生街道と旧栃木街道の分岐点であり、現在の県道18号小山壬生線と旧栃木街道の分岐点となっている。 壬生町道路元標から旧栃木街道を西に450m程進むと右手に折本地蔵尊がある。この地蔵尊は寛文4年(1664)の造立で、別名を駒止め地蔵尊といい、昔、馬を引き連れた馬喰さんが地蔵尊の前で立ち止まると、引き連れた二頭の仔馬が姿を消し、大変と探しまわると仔馬は見つかり、これはお地蔵様の御利益だと有難がったという。 街道に戻って進むと栃木警察署壬生交番の前で右に折れ、直ぐ先の壬生駅入口交差点で左に折れる桝形道となっている。

松本家住宅 壬生宿並み 松本本陣跡 壬生城東郭「櫓台跡」
松本家住宅は、国登録有形文化財に指定されており、表門・裏門・塀は黒板で覆われ、重厚な造りとなっている。松本家は本陣役を担った松本家の分家であり、初代松本庄作は一時本陣の役も勤めていた。建物は個人宅であり非公開となっているが、表門付近から主屋・文庫蔵などを見ることが出来る。 壬生宿の町並みは近代建材による建替えが進んでいるが、ところどころに白壁の店蔵や虫篭窓の付いた家などが見られる。 先に進むと左手の増田輪業(自転車屋)の脇に松本本陣跡がある。本陣は名主である松本庄兵衛家が務めており、本陣の建物は、約125坪(412㎡)の建坪で、14室あったという。 松本家本陣跡の前の筋を道なりに西に入って行くと、住宅地の中の公園脇に壬生城東郭(ひがしくるわ)櫓台跡がある。ここには壬生藩から幕府に櫓台を築く計画が提出されたが、実際には櫓を築くことなく櫓台だけが築かれたようである。

壬生城大手門 壬生通由来碑 壬生城址 石崎家長屋門
街道に戻ると左手の足利銀行壬生支店の前に壬生城大手門説明板が建っている。説明板には 「壬生城大手門は、元禄7年(1694)に、城主松平輝貞が壬生城を大改修したときに造られました。壬生城には、天守やそれに代わる櫓などは建てられなかったため、大手門は城のシンボルといえる存在でした。江戸時代末期の記録には、壬生通を往来する旅人は、誰もがその威容に足を止めてながめた・・」 云々と記されている 足利銀行壬生支店の向かいの通りに壬生通の由来碑が建っている。碑には、「壬生通は江戸から日光に向かう諸街道の一つである。日光道中の小山宿から分かれ、やや西方を北上し今市宿で合流して日光の鉢石に到るその中間に壬生宿があり、そこには壬生城もあって、主要な地であったから壬生通と呼ばれた。以下略」 と記されている。 足利銀行壬生支店脇から西に向かう道は大手門通りであり、400m程西に進むと右手に壬生城址公園がある。壬生城は、明治の初めに取り壊されたが、本丸の土塁と堀が残っている。園内には、壬生藩領傍示杭、大手門の礎石、吾妻古墳石室玄門石などがある。 街道に戻ると直ぐ左手に石崎家の長屋門が建っている。石崎家は、代々壬生藩医師として仕え、当時の建物は、嘉永6年(1853)の伊勢屋火事により土蔵を除いて焼失し、母屋・長屋門は万延元年(1860)に建て替えられた。長屋門の前の道は 「蘭学通り」 と呼ばれ、歩道わきに 「美しいまち賞」 碑が建っている。また通りの向いには、自成館という町中休憩所が建っている。

雷電宮 興光寺 白横(はくおう)神社 常楽寺
自成館の裏手(東側)に雷電宮がある。雷電宮の由来等は不明であるが、鳥居は石造りの神明鳥居で、手水舎の裏に2基の庚申塔が建っている。 街道に戻る石崎家長屋門の北側に浄土宗の深渡山照泉院興光寺がある。興光寺は、室町時代の応永年間(1394-1428)に良納上人が開山したのが始まりといわれている。本尊は阿弥陀如来で、慶安4年(1651)に徳川家光が輪王寺に埋葬される際、興光寺で通夜が行われたことから、幕府から庇護され、山門や本堂の瓦に三葉葵が掲げられている。 興光寺を出て次の左手筋を左(西)に折れると、右手に白横神社がある。白横神社は大同2年(807)の創建と伝えられている。もともと壬生氏の氏神として祀られていたという。鳥居は神明系で大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られており、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・縁結びなどの御利益がある。 白横神社から100m程西に入ると右手に曹洞宗の向陽山常楽寺の入口がある。門柱から山門までは100m程の長い参道が続いている。常楽寺は、室町中期の寛正3年(1462)壬生初代城主壬生筑後守胤業が、寺領26石を寄進して創建した寺院である。山門は最近建替えられたようで真新しく、山門前には普賢白象が祀られている。境内には、尾形光琳の弟・尾形乾山の歌碑が建立されている。

壬生駅
今回は常楽寺で終了し、最寄りの東武鉄道宇都宮線の壬生駅まで戻り帰宅の途に就いた。壬生駅は、昭和6年(1931)8月に開業しており、駅舎は木造で昔の面影を残している。

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