そもそも当山の由来はその昔、世にも奇特なお同行「お似呂さん」が(開基文化十癸酉夏五月八日示寂)関東二十四輩御旧蹟巡拝されたおり、由緒深き親鸞聖人大蛇済度の蛇骨経塚に参拝され、その風情いたく退廃しているのを哀しみ、当時壬生領主であった鳥居丹波守に懇請し、越後国頚城郡国府から篤信の農夫(第二世住職職大暢法師)を迎え一寺を建立し、大蛇済度の故事に因み、光明山紫雲寺と公称したといわれる。爾来、草深いこの地にあって、風雪に耐え、僧俗相携え、辛苦を克服し、他力念仏の法燈を相続し、ここに当山創立200年大遠忌法要を営むに当たり、敢えてこれを記念し、聞法弘通の拠点たる本堂荘厳の修復並びに会館新築の落成をみるにいたる。よって、この威容を讃え永しえに次代に伝えんとするものである。合掌

 当寺は寛政元年9月尾張国海東郡佐織村のおいうと申す女子二十四輩御旧跡参拝に来り国分寺の蛇骨経塚に参詣し其の旧跡のいたく廃頑したるを悲しみ領主鳥居丹波守に願い越後国頚城郡国府より篤信の農夫を連れ来り辛苦経営して建立したる寺なり。爾来連綿として来りしが昭和25年5月17日漏電により本堂庫裡とも鳥有に帰し門信徒悲嘆にくれしも直ちに復興の聖業を起し、昭和34年4月完成同月19日入佛慶讃法要を厳修せり。茲に碑を建立し門信徒の懇念を永く後世に伝えんとす。

 私たちの宗門は、中興上人と仰ぐ蓮如上人の五百回忌のご正当をお迎えするに当たり心から上人を讃仰しなければなりません。
 蓮如上人は1415年京都東山大谷本願寺で第七代存如上人のご長男として誕生され17歳のとき天台宗の青蓮院で得度され、1457年上人43歳のとき父存如上人の遷化によって本願寺第八代を継承され、ひたすら真宗再興の課題に取り組まれました。
 貧苦のどん底にありながら、幾多の迫害にも遭遇し、深刻な社会不安と混迷の中から常に時代社会の動向を的確に把える上人の慧眼の冴えにより、念仏の自治組織として講が生成され多くの同朋を得るに至り。長期に亘り精力的な活動でお書きになられた「お文」も252通も数え「親鸞聖人は御同朋御同行とこそかしずきて仰せられけり」と歎異精神による行動の基本姿勢を示し、積極的に「南無阿弥陀仏」の名号を与え「正信偈和讃」による日々の礼拝勤行を教え真宗門徒の生活作法をも築かれました。
宗祖親鸞聖人によって開顕された「ご再興の上人」である蓮如上人のご遺徳を讃仰し五百回御遠忌の巡合わせを感謝し、法要の厳修とさらには鐘楼の新築建立を餞る。よって、茲に碑を建立し門信徒の懇念を永く後世に伝えんとする。

蓮如上人五百回御遠忌を迎えるにあたって

紫雲寺山門

山門に掛かる開華院の扁額

山門前の巨木の藤棚

見真大師花見ヶ岡大蛇済度蛇骨経塚御舊蹟碑

記念碑

由来碑・記念碑

親鸞聖人像

鐘楼

手水舎

紫雲寺本堂

本堂に掛かる紫雲寺の扁額