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壬生街道   (壬生~奈佐原


令和6年4月10日(水)   ☀    壬生~奈佐原    13.0㎞
昨日は風雨が強く台風のような一日だったが、今朝は快晴で終日穏やかな日和とのことだったので、急遽、前回の続きを歩くこととした。東京から壬生までは電車を4回ほど乗り継いで約3時間かかるが、午前7時半に壬生駅に到着し街道歩きをスタートした。今回は、壬生宿から奈佐原宿を目指すこととした。

壬生宿並み 黒川堤桜 愛宕神社 壬生寺
早朝の壬生宿は車の往来も人通りも少なく、とても気持ちよくスタートすることが出来た。前回立ち寄った石崎家長屋も朝日を浴びて趣ある風情である。 先に進み大師町南交差点で国道352号に突き当ると街道はここを左折していくが、右折すると200m程先は黒川である。黒川堤には桜が植えられており、今が満開で咲き誇っていた。北方には桜越しに日光連山が見えている。 街道に戻って大師町南交差点を左折すると直ぐ右手に愛宕神社がある。この愛宕神社は明治年間に創建されたといわれ、社殿内には本殿と神輿が納められている。愛宕神社は火伏せ・防火に霊験のある神社といわれている。 愛宕神社から400m程先に進むと右手に天台宗の紫雲山壬生寺がある。壬生寺は、慈覚大師円仁が誕生した聖蹟と言い伝えられている。円仁は、延暦13年(794)、下野国都賀郡において壬生氏の子として生まれたいわれ、壬生寺境内には円仁が生まれたときに産湯として使ったという 「産湯の井戸」 のほか、貞享2年(1685)建立の慈覚大師堂、元禄7年(1694)建立の地蔵堂、土屋文明の歌碑などがある。

八幡神社 街道並み 名残杉 北関東自動車道
街道に戻ると間もなく右手筋の奥に八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不明であるが、拝殿は上新町公民館が兼務しており、建物の裏手に庚申塔などの石造物が安置されている。 八幡神社の直ぐ先で県道2号(壬生バイパス)を渡ると街道は北西に向かい、これまでの景色と一変して前方に日光連山が見えてくる 日光36㎞の道路標識から700m程進むと左手に街道の名残杉が立っている。そこから先は桜並木が200m程続き、桜並木が切れる辺りから再び数本の名残杉が立っている。 数本の名残杉の先で北関東自動車道の高架下をくぐっていく。

金売り吉次の墓 稲葉一里塚跡 鯉沼九八郎翁碑 廃神社
北関東自動車道の高架下をくぐり230m程進むと右手の畑地に金売り吉次の墓がある。金売り吉次は、源義経に仕えた砂金などを売買した者と言われている。小さな祠の中に墓といわれる石が祀られている。 金売り吉次の墓から150m程先の左手に稲葉の一里塚跡がある。往時は塚上に松が植えられていたというが、現在はケヤキのようである。ここは江戸日本橋から数えて24里目の一里塚跡である。 稲葉の一里塚跡の直ぐ先の壬生町役場稲葉出張所の前に鯉沼九八郎翁碑が建っている。鯉沼九八郎は、明治から大正時代の自由民権運動家である。嘉永5年(1852)に生まれ、明治17年(1884)政府転覆を目指して爆弾製造中に負傷し逮捕された。出獄後は、栃木県議会議員となり 「加波山将軍」 とも称され活躍した。 鯉沼九八郎翁碑の先の横断歩道橋の左手に廃寺ならぬ廃神社がある。鳥居は雑木に絡まれて見えず、拝殿の格子は外れて、中の本殿は雑草に絡まれている。傍らに大きな鉄釜が置かれ、街道を挟んだ廃屋の庭には馬力神と石祠が5基並んでいる。この辺りは売物件の看板が貼られた空き家が数軒見受けられる。

高尾神社 円宗寺 市兵衛八幡 天満宮
廃神社から300m程先の右手筋(左手はJAしもつけ)を約1㎞程東に入るとこんもりとした林があり、この中に高尾神社がある。高尾神社は、高倉天皇の皇后建礼門院に仕えた少納言高尾に由来する神社と言われている。境内には高尾神社の由来が記された説明板のほか、神楽殿、天保7年(1837)の手水石、境内社の稲荷神社・石祠などがある。 街道に戻ると直ぐ左手に円宗寺の門柱が建っており、この筋を350m程入ると正面に天台宗の慶玉山円宗寺がある。円宗寺は、嘉祥元年(848)慈覚大師円仁により創建されたと言われており、一時衰退したが江戸時代に天海大僧正の弟子・朗海が復興・中興したという。境内には手入れの行き届いた庭園のほか、石仏・十九夜塔、馬頭観音などの石造物がある。 円宗寺の南側150m程のところに市兵衛八幡がある。壬生城主加藤氏の時代、領主の重税に耐えかねた農民の代表3名が、税の軽減を領主に訴えたが捕えられ打ち首となった。村人は、市兵衛の義侠心に感じ、市兵衛八幡として神に祀ったものである。 街道に戻っていくと街道に出る手前左側に天満宮がある。天満宮は、冷泉天皇の時(967-69)に当地に勧請し、寛文5年(1665)に大破した社殿を改築したという。境内には神楽殿、神輿庫のほか、浅間神社石祠、頌徳碑、軍馬紀念碑、忠魂碑などの石造物がある。

親抱きの松 ようこそ七ツ石の里へ 稲荷神社 馬力神
天満宮から150m程先で左手の紀念碑の建つ筋を入り、道なりに進んでいくと畑地の真ん中に親抱きの松がある。南北朝の時代、この地で亡くなった母を供養する娘がいたが、この娘も病で亡くなってしまったという。村人はこの母子を哀れんで墓に2本の松を植えて墓標としたが、いつしか2本の松は相抱くようになり、人々から 「親抱きの松」 と呼ばれるようになったという。 街道に戻って1㎞程進むと恒石いちご園の先に 「ようこそ七ツ石の里へ」 の屋形案内板が建っている。この辺りは、江戸時代に七ツ石村新田という地名があり、この地の熊野神社の傍らにある丸い石が七度鳴動して現出したという伝説に由来するという。この屋形案内板の直ぐ先に七ツ石伝承館が建っている。 七ツ石伝承館から500m程先に進むと左手民家の脇に稲荷神社がある。近年に改修された様子で、境内はコンクリート打ちされてパイプフェンスで囲われている。 稲荷神社から70m程先の左手筋角に昭和14年(1939)の馬力神が建っている。馬力神は、栃木県に多く見られる石碑で、幕末から明治時代に最も多く作られたという。

龍光寺 鹿沼市 天満宮 金刀比羅宮
馬力神が建つ筋を100m程入ると突き当たりに真言宗智山派の八龍山三明院龍光寺がある。龍光寺は、境内にある縁起碑によると、本尊は聖観世音菩薩で、室町時代の大永7年(1527)、円明院超栄が開基である。境内には阿弥陀三尊像を祀った阿弥陀堂、弘法大師像のほか、数基の十九夜塔などの石造物がある。 街道に戻ると程なく壬生町から鹿沼市へ入っていく。 鹿沼市に入って間もなく北赤塚十字路交差点を左折すると右手に天満宮がある。天満宮の創建年代等は不詳であるが、周囲を田んぼに囲まれた林の中にあり、拝殿は一見二階建てのように見える。傍らには境内社の稲荷神社石祠がある。 街道に戻ると北赤塚十字路交差点から200m程先の左手に金刀比羅宮がある。ここも近年に改修された様子で、鳥居、覆屋、本殿は全て新しい。

稲荷神社 廣濟寺 判官塚古墳 磐裂根裂神社
金刀比羅宮から200m程先の十字路を右折して250~60m程東に踏み込むと稲荷神社が東を向いて建っている。稲荷神社の由緒等は不明であるが、境内には寛政6年(1794)の石燈籠が4基建っている。 稲荷神社の北側70~80mのところに天台宗の烏丸山廣濟斎寺がある。廣濟寺は、室町時代の一品親王烏丸大納言広斎の創建といわれている。本堂には、鎌倉時代作の阿弥陀三尊が祀られ、境内の御堂には、江戸時代の遊行僧円空が作ったという木造千手観音菩薩立像が祀られている。また、山門脇には十九夜塔、地蔵菩薩などの石造物がある。 街道に戻って平坦な道を500m程進むと左手の畑地の中に判官塚古墳がある。この古墳は鹿沼市指定史跡となっており、全長60.9m・後円部径31.3m・前方部径39.15m・後円部高5.15m・前方部高4.73mで、塚の名は九郎判官義経が奥州へ向かう途中、ここに隠れたという伝承に由来する。塚上には桜が植えられており、前方部塚上に大倉神社が祀られている。 街道に戻ると判官塚古墳入口の街道を挟んだ向かい側に磐裂根裂(いわさくねさく)神社がある。当神社は、磐裂神、根裂神を祀り、延暦元年(782)三度目の登頂で日光山の登頂に成功した勝道上人に由来する神社である。境内には、庚申塔、己待供養塔などの石造物がある。

北赤塚一里塚跡 愛宕神社 馬力神 おざく道道標
街道に戻ると直ぐ先に北赤塚の一里塚跡がある。ここは江戸日本橋から数えて25里目の一里塚跡である。西塚の方は榎が植えられてはっきり塚と分かるが、東塚は木々が生い茂りはっきりとは確認できない。塚の西側の斜面には馬力神、馬頭観音などの石造物がある。 一里塚跡の北側の林の中に愛宕神社がある。西塚の左手の道の先に本来の参道があり、石鳥居が建っている。愛宕神社の由緒等は不明であるが、境内には小社のほか、石祠、甲子大黒神、猿田彦大神などの石造物がある。 街道に戻って200m程進むと右手の木の下に昭和15年(1940)の馬力神が建っている。傍らには名残杉の大きな切り株が残っている。 馬力神の直ぐ先左手の筋角に自然石のおざく道道標が建ってる。この道標は、壬生街道(国道352号)から粟野街道への分岐に建っている。道標には、「右くかおさく 左あ八のをさくミち」 と刻まれ、石裂山(おざくさん)に鎮座する久我石裂(くがおざく)と粟野石裂(粟野おざく)への道標である。

杉並木 磯山神社 東北自動車道 追分道標
おざく道道標の100m歩先から杉並木が断続的に600m程続いている。途中の千趣会商品センター前では桜並木が入り混じっており、鹿沼市立南押原小学校の手前で途切れている。 鹿沼市立南押原小学校の手前の左手筋を入って行くと230~40m程にところに磯山神社のある林がある。参道入口はそこから250m程南に行ったところにある。磯山神社は、永延2年(988)の創建で、徳川家より御朱印地を賜った由緒ある古社である。境内には、たくさんんのアジサイがあるがこの時期は花がない。また社殿脇には樹齢400年を超える夫婦杉、境内がまとめられた社などがある。 街道に戻って鹿沼市立南押原小学校の先を650m程進んで東北自動車道の高架下をくぐっていく。 東北自動車道の高架下をくぐって700m程進むと左手から来る例幣使街道と合流する。逆Y字路の中央に道標が建っているが、風化してなかなか文字が見えないが、正面はかろうじて 「右中山道 左江戸道」 と刻まれているのが確認できる。

成就院 石造物 名残杉 文楽用具収蔵庫
追分交差点から470~80程進んだ右手に真言宗智山派の楡木山成就院がある。成就院の創建年代等は不詳であるが、境内には推定樹齢100年の 「しだれあかしで」 があり、栃木県指定天然記念物に登録されている。また境内左手には十王堂、三面八臂の馬頭観音があり、山門脇には馬力神、十九夜塔などの石造物がある。 街道に戻って400m程進むと右手の田んぼの前に4基の石造物が並んでいる。左から天保2年(1832)の勝善神、宝暦6年(1756)の大乗妙典供養塔、年代不詳の馬頭観世音、宝暦3年(1753)の馬頭観世音である。 石造物から程なく左手に大きな名残杉が2本立っている。 名残杉から800m程先の右手に奈佐原文楽用具収蔵庫標柱が建っており、この筋を10m程踏み込むと左手に大谷石造りの収蔵庫が建っている。奈佐原文楽は、栃木県に現存する唯一の三人遣い人形浄瑠璃である。収蔵庫の東側空地には、明治期の十九夜塔2基と84番と刻まれた弘法大師石祠が建っている。

旧家 奈佐原神社 地蔵菩薩 名残杉
奈佐原文楽用具収蔵庫の直ぐ先右手に冠木門の旧家がある。門の奥には大谷石の蔵があり由緒ある家かと思われる。 旧家の直ぐ先左手筋に奈佐原神社入口の看板がある。この筋を入って行くと畑地が広がる中に奈佐原神社がある。奈佐原神社は、宝永2年(1705)の創建といわれ、その後に2度の奈佐原宿大火に遇っている。境内には石鳥居を構えた愛宕神社のほか、弁財天・八坂神社・小出神社など7社を祀る境内社がある。 街道に戻ると直ぐ先の奈佐原神社東バス停の前に地蔵菩薩坐像が建っている。 地蔵菩薩から800m程進むと右手に名残杉が一本立っている。

光明寺 道標 金売り吉次の墓 樅山駅
先に進み樅山駅前交差点を越えて650m程先の右手筋を入ると突き当りに曹洞宗の鳳凰山光明寺がある。光明寺の創建年代には諸説があり、古いものでは寛政年間(1460-66)といわれている。山門は江戸時代に造営されたもので、彫刻は左甚五郎が手掛けたものといわれている。境内には地蔵菩薩坐像、弁財天、如意輪観音、十九夜塔などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ先の大門宿交差点の逆Y字路中央に道標が建っている。この道標は、中程で折れており、風化が進み刻まれた文字の判読は難しが、かろうじて左面には 「粟野 琴平 岩松 善光」 と刻まれているのが判る。今回は、ここで終了し最寄り駅の樅山駅に出て帰宅する。 道標の前を左折して樅山駅へ向かうと東武日光線の踏切手前に金売り吉次の墓といわれる宝篋印塔が建っている。近くに説明板などがないため詳細は不明である。 金売り吉次の墓から80m程南に東武日光駅の樅山駅がある。

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