天保6歳三月東部觝年寄柏戸宗五郎門人下野国鹿沼傍玉田村産歌ヶ浜斧吉力士二荒山神大願成就日光壬生喜沢有志補助喜沢分岐碑建立したる此処より日光行きを恐れた奥州街道沿線の人達により倒されては建て倒されては建てしたこと70年村人深く憂いて明治44年日枝神社境内に移転したる也 平成に至り時の総代会が復元すべきと諮り栃木県土木部道路課の配慮により平成31年還元されたものである。

男体山碑由来

明治27年(1894)の馬頭観世音碑

天保6年(1836)の男體山碑

(下部に 「左日光・右奥州」 と刻まれている)

明治37年(1904)の馬力神碑

(この碑の裏にもう一基馬力神碑が隠れている)

天明5年(1785)の西国秩父坂東供養

(左側に 「左壬生道」 と刻まれている)

日清日露日支出征馬碑

聖観世音菩薩像