一里塚は、江戸日本橋を起点に三十六町を一里(約4㎞)とし、街道の両側に設けられた五間(約9m)四方の塚のことです。
 一里塚�が全国に広まったのは、慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じ、日本橋を起点に主な街道に一里塚を築かせたことに始まると言われています。
 壬生の一里塚は、「日光道中壬生道」 に設けられた一里塚の一つで、二本橋から数えて23里目(約92㎞)にあたります。
 壬生道は日光道中と小山の喜沢で西に分かれ、壬生・鹿沼・今市を経て、今市において再び日光道中に合流する街道です。壬生の一里塚は、この地が壬生城の入口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例にしたと言われています。
(壬生町教育委員会)

壬生一里塚西塚

一里塚標柱と縄解地蔵標柱

壬生一里塚説明