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次へ   喜平橋~四谷大木戸跡

玉川上水 ①

 玉川上水開削前は、寛永6年(1629)頃完成した井の頭池・善福寺池・妙祥寺池の湧水を水源とする神田上水があったが、慶長14年(1609)頃に江戸人口が約15万人に増加すると神田上水だけでは足りなくなり、承応元年(1652)、幕府は工事請負人を庄右衛門・清右衛門兄弟(墓所は台東区の聖徳寺にある)に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱(墓所は川越街道近くの平林寺にある)を命じた。
 工事は、承応2年(1653)4月に着工し、その年の11月には、羽村取水口から四谷大木戸までの全長約43kmの素掘り水路が完成した。

平成29年1月17日(火)   ☀    羽村取水堰 ~ 喜平橋  約20.0㎞
本日から2~3日は、寒波のため気温が氷点下となるとのことだったが、終日晴天が続く予報だったので、2日かけて玉川上水を歩くこととした。青梅線の羽村駅で降りて南西に都道163号線を進むと多摩川に突き当たる。これまでに歩いた神田川・善福寺川と同様に玉川上水に架かる橋を中心に見ていくこととする。

羽村駅 稲荷神社 禅林寺 東会館
JR阿青梅線の羽村駅は、明治27年(1984)青梅線の開通と同時に営業を開始した。
多摩川方面の西口は昔ながらの商店街が残っているが、東口は大型の商業ビルが建っている。
新奥多摩街道を渡ると、右手段上に稲荷神社がある。
稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内の案内板によると、江戸時代に稲荷社と称して禅林寺の西南あたりに鎮座し、東ヶ谷戸の鎮守であったと言われ、明治39年(1906)に此の地へ遷座したという。
稲荷神社の西側に臨済宗建長寺派の東谷山禅林寺がある。
境内の解説によると禅林寺は、鎌倉円覚寺の三伯玄伊禅師の法を嗣いだ春学禅師が開山で、山号は此の辺りの地名 「東ヶ谷戸」 から東谷山とした。この寺は 「大菩薩峠」 の作者中里介山の菩提寺で、本堂裏山の墓地に中里介山の墓がある。
禅林寺の先のY字路右手に羽村市の地域集会施設東会館が建っている。
羽村市には23ヶ所の地域集会施設があるが、これ等の中で最もおしゃれな建物であり、地域で行う歌や踊りの練習などのサークル活動や会議などに使われている。

第二水門歩道橋 羽村橋 第三水門 羽村大橋
ここは玉川上水の取水口(水源)であり、正式名称は東京都水道局羽村取水堰という。
承応2年(1653)に素掘り水路が完成した翌年に、この羽村取水堰が設置され、ほぼ変わらずに現在に至っている。
ここには、玉川上水の開削を請負った玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門兄弟)の銅像が建っている。
第二水門歩道橋の下流に、奥多摩街道い繋がる羽村橋がある。
橋の左渡り詰めは羽村堰入口交差点で、横断歩道橋がある。
羽村橋の脇には太い三本の鉄管が架かっている。
羽村橋の上下流域。
羽村橋の下流に第三水門がある。
満々とした水のほとんどが、この第三水門を通り、地下導水管で村山貯水池(東京都東大和市)と山口貯水池(埼玉県所沢市)に送られ、その後、東村山浄水場で都民の水道水となり各戸に送られている
第三水門のある東京都水道局羽村導水ポンプ所の下に羽村大橋がある。
羽村大橋は都道250線が通り、多摩川を跨いでいる。第三水門を過ぎた羽村大橋の辺りは、極端に水量が少なくなり、川底が見えるほどになっている。

堂橋 石祠 新堀橋 金毘羅神社
羽村大橋の直ぐ下流に堂橋がある。
堂橋は、橋の渡り詰めから北に延びる堂坂の名前の由来と同様に、承応2年(1653)に玉川上水の工事が始まる前まで、この地に有った薬師堂に由来している。
橋の渡り詰めには堂坂の解説が有り、堂橋の下流には澄んだ流れに鯉の群れが見られる。
新堀橋の手前は緩やかな坂道となり、右手の木々の間に水神と思われる石祠がある。 石祠の前の緩やかな坂を上がったところに新堀橋がある。欄干は丸太を模したコンクリート造りである。
この辺りの川筋は、度々、多摩川の出水により堤が崩壊されたため、元文5年(1740)に多摩川付近から40~50mほど東に掘り替えられたものである。旧堀跡は、加美上水公園に遺構が残されている。
新堀橋の上下流域は、新東京百景に選定されている。
新堀橋の袂右手の段上に金毘羅神社がある。
かつての玉川上水はこの小山の裏辺りを通っており、この小山は掘った土を盛ったものではないかと言われている。
金毘羅神社の由緒等は不明であるが、小山の上の社殿には金比羅大権現と刻まれた石碑が安置されている。

加美上水公園 加美上水橋 宮本橋 長徳寺
金比羅神社から下流域は、多摩川緑地福生加美上水公園となっており、武蔵野の面影を残す雑木林がある。
公園内には永昌院の地蔵菩薩、富士山が見えるポイントなどがある。
加美上水公園が終わるところに、加美上水橋がある。
この橋は、写真でも分かるように人道橋で、比較的新しい。かつては大正天皇の陵墓造営に必要な石を多摩川から運ぶために、福生駅から西に進んだ羽村市の境付近まで1.8kmの砂利運搬専用の鉄軌道が通っていた。
加美上水公園の開園により、平成3年(1991)に改装架替られた。
加美上水橋の下流で、玉川上水が左に曲がった先に宮本橋がある。
宮本橋は、江戸時代は宝蔵院橋と言われていた。宝蔵院橋の名前の由来となった宝蔵院は現在無いが、渡り詰めの奥多摩街道脇に赤い屋根の観音堂が残っている。
宮本橋は、宝蔵院住職の還俗後の宮本姓に由来すると言われている。
橋からは富士山が良く見える。
宮本橋から多摩川方向に入ると右手に臨済宗建長寺派の玉雲山長徳寺がある。
長徳寺は、肯外(寛正元年1461年寂)が開山となり創建したといわれ、寛政元年(1789)火災により堂宇が焼失した。
その後、幾多の変遷を経て、平成8年(1996)に現在の堂宇となった。

天皇皇后両陛下行幸啓御所 宿橋 新橋 清巌院橋
宮本橋の下流に小さな橋があり、橋を渡ったところに、玉川上水に面した田村酒造場の門がある。
平成28年4月12日に天皇皇后両陛下が、この門前から玉川上水を御視察された。門脇には、天皇陛下・皇后陛下行幸啓御所碑が建っている。
続いて鉄筋コンクリート造りの宿橋がある。
宿とは、名主家の屋敷を中心とした福生村の一地域で、鍛冶屋・車大工・酒造等のある村一番の集落であったという。
かつて木製の橋であったが
、昭和11年12月に鉄筋コンクリート造りとなり、親柱に昭和11年12月成、平成6年3月改修と刻まれている。
新橋は、都道165号線と都道29号線を結んでおり、車の往来が多い橋である。
都道29号線を先に進むと多摩川に架かる永田橋がある。
新橋の上下流域。
新橋から下流は、玉川上水縁を通る道が無いので上水を見ることなく奥多摩街道を進む。
請願院橋は、玉川上水を開削した時、上水堀が青梅へ通じる道と交差したため造られた橋である。
清巌院橋の名前の由来となった清岩院は、橋の南側に位置したところにある。

清岩院 中福生公園 熊野橋 かやと橋
清巌院橋の南側に臨済宗建長寺派の福生山清岩院がある。
清岩院は、清岩院一便宗見大居士が開基となり、心源希徹禅師を開山として応永年間(1394-1428年)に創建された。
境内には、本堂のほかに弁天堂や東京名湧水57選に選ばれた清水の湧き出る日本庭園がある。
清巌院橋から次の熊野橋までの間に中福生公園がある。
中福生公園は玉川上水縁の道よりも下にあり、園内には3基の噴水が配されている。
中福生公園が終わると熊野橋がある。
熊野橋は、承応2年(1653)玉川上水の開削時に、村の農道として他の橋とともに民費で架けられたもので、橋の名称は、この地にあった熊野権現を勧請した神社に由来するという。親柱と高欄は、歴史的背景を加味して権現造りのイメージを取り入れている。
熊野橋の隣には横断歩道橋があり、橋の上からは富士山が良く見える
かやと橋は、漢字で萱戸橋と表記されるようであるが、橋には漢字の橋標は見当たらない。
福生市のホームページでは、萱戸とは古来武蔵野に自生する萱野原を指したもので屋根を葺くのに用いる草木の総称という。
かやと橋の上下流域。

御嶽神社 牛浜橋 稲荷神社 青梅橋
かやと橋の下流は、玉川上水縁の道が無いので、このまま奥多摩街道を進むと、かやと橋と次の牛浜橋の中間辺りに御嶽神社の石祠が建っている。 牛浜橋は、東京と秋川上流域を結ぶ五日市街道に架かる橋であり、昨年(H28)4月に五日市街道を歩いてから再度お目にかかる。
明治初期に新政府は、東京市の近代化を図るために、熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えた。これを見聞した村民が牛浜橋の建設に取り入れ、明治10年12月に建設された、当初、「めがね橋」 と愛称された。現在の橋は、昭和52年に架け替えられたものである
牛浜橋からは、新奥多摩街道か奥多摩街道を進むこととなるが、引き続き、奥多摩街道を進むと左手の玉川上水縁に稲荷神社がある。
稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、社殿には古めかしい石祠が安置されている。
稲荷神社を出ると奥多摩街道の南側道下に 「ほたる公園」 がある。
青梅橋の名前の由来については、この橋の欄干に由来プレートが貼られており、この橋が拝島から熊川そして福生を通り、羽村からやがて青梅に至る 「青梅街道」 と呼ばれた道筋にあたることかである。
また、親柱と欄干にはホタルの姿が描かれており、初夏にはこの橋からホタルが見られることから、この橋を 「ほたる橋」、この道筋を 「蛍通り」 と呼んでいる。

福生橋 山王橋 五丁橋 水喰土公園
青梅橋からは、新奥多摩街道を進み福生橋に出る。
福生橋は、親橋に昭和33年(1958)3月竣工と刻まれているが、玉川上水に架かる最大の橋である。
福生橋の上下流域。
福生橋からは左岸(北側)も右岸(南側)も住宅地の中の道を進むと山王橋に出る。
山王橋の名前の由来は、近くに山王大権現の石塔があったことによると言われている。
山王橋は、車が往来する割には狭いため、隣に 「山王橋歩道橋」 が設置されている。
山王橋の下流も玉川上水縁の道は無いので、左岸(北側)か右岸(南側)を回って行く。
五丁橋は、この付近の武蔵野台地の一角に 「五丁山」 と呼ばれた山林があったことから、これが橋名の由来ではないかと言われている。五丁橋の上下流域。
五丁橋の下流右岸(南側)に水喰土公園があり、玉川上水縁の散歩道が続いている。
水喰土公園の名前の由来は、玉川上水の開削の際、この付近で水が地中に吸い込まれ失敗したということから 「みずくらいど」 という地名が発生したことによる。
公園内には、立川段丘崖の下を段丘崖に沿って開削した工事跡が約27mに渡って残っている。

武蔵野橋 どんぐり橋 日光橋 平和橋
水喰土公園の下流にある日光橋公園を跨いでいるのが武蔵野橋で、東京環状(国道16号線)が通っている。 武蔵野橋の直ぐ下に歩道橋のどんぐり橋がある。
この橋は、公園内に架かる橋で、渡り詰めにある素手で登れる岩山のある広場を繋ぐ橋である。
どんぐり橋の上下流域。
日光橋は、八王子から直ちに拝島に入り、松山、佐野を通って日光に至る経路(日光往還)であったため、この名が付いた。
明治24年7月、煉瓦橋へ架け替えらえたが、その後、昭和25年3月に現在の橋に架け替えられた。
日光橋の上下流域
日光橋から程なく西武拝島線鉄橋と隣接した平和橋がある。
平和橋の袂には、「平和橋のいわれ」 石碑があり、この橋は地元の建設推進者のご尽力により昭和47年4月に完成し、福生市に寄贈された。平和橋のいわれは、世界の恒久平和を願う趣旨をもって 「平和橋」 と命名されたという。
平和橋の上下流域。

こはけ橋 西武拝島線鉄橋 ふたみ橋
平和橋の下流は、玉川上水に沿って玉川上水緑道が整備されている。
途中に小さな堰が設けられており、近くには玉川上水の解説板が建っている。
こはけ橋の由来は不明であり、親柱の橋標も平仮名で書かれているが、「はけ」 は 「崖」 を意味し、崖地形、丘陵などの古語で、特に武蔵野台地の崖線を指して使われることから、「小崖橋」 と想像される。
こはけ橋の上下流域。
こはけ橋の直ぐ下に西武拝島線の玉川上水橋梁がある。 西武拝島線鉄橋に続いて、丸太を模した欄干のふたみ橋がある。
この橋の橋標も平仮名で書かれているが、橋の上下流域は雑木林があり、武蔵野の面影を残している。

拝島上水橋 ゴルフ場内の橋 美堀橋 暗渠入口
拝島上水橋は、都道220号線が通っており、北に進むと横田基地に突き当たる。
ここから右岸(南側)は昭和の森ゴルフコースの敷地となるため、左岸(北側)の歩道を進んで行く。
拝島上水橋の手前には、昭和2年に拝島村青年団が建立した道標が建っている。
拝島上水橋の下流にある美堀橋に近いところに、昭和の森ゴルフコースに架かる橋がある。橋のすぐ近くにグリーンなどが見えるが、この橋は使われていない橋である。 美堀橋の右岸(南側)渡り詰めに昭和の森ゴルフコースクラブハウスがある。
この辺りの地名が美堀町で、橋の名前はこれに由来し、その名の通りこの付近の玉川上水は、雑木林に囲まれた美しい流れを見せている。
昭和の森ゴルフコースの練習場付近で玉川上水は地下に潜ってしまう。
この暗渠は、昭和14年(1939)に玉川上水の南側に旧日本軍の滑走路が完成し、将来、延長される予定で玉川上水に鉄筋コンクリートの蓋をしたものである。
しかし、滑走路が延長されることは無く、そのまま残ってしまったという。

暗渠出口 松中橋 砂川用水 一番橋
暗渠は約200m程続き、ちょうど昭和の森ゴルフコース練習場クラブハウス辺りで開渠となる。 開渠となって間もなく、立川市と昭島市の境に位置するところに松中橋がある。
松中橋の上流南側に二つの水門があるが、これは上流から柴崎分水口と砂川分水口である。この分水口へ供給するため、松中橋の下流に小さな堰が設けられている。
松中橋の下流右岸の玉川上水緑道に並行して砂川用水がある。
砂川用水は、玉川上水から分かれた用水の中では、明暦元年(1655)に開削された野火止用水に次いで古い用水であり、明暦3年(1657)に開削され砂川新田に供給された。
砂川用水が暗渠となって程くなく、玉川上水下流に一番橋が架かっている。
一番橋の名前の由来は、この付近の地名が立川市一番町ということから、この名が付いた。
一番橋は、周囲の雑木に溶け込むように、親柱と欄干が丸太を模した造りになっている。

天王橋 八雲神社 新天王橋 稲荷橋
天王橋は、都道59号線(多摩大橋通)と都道162号線が通り、隣接して都道7号線(五日市街道)が通る新天王橋があるため、交通量の多い場所である。
天王橋の名前の由来は、橋の南詰に八雲神社があり、牛頭天王を祀っていることによる。
天王橋の南詰にある八雲神社は、牛頭天王が祀られており、地元で天王様と呼ばれている神社である。
狭い境内には、境内には文化3年(1806)の秋葉大権現常夜燈、享保20年(1735)の馬頭観音、享保4年(1719)の念佛講と刻まれた地蔵菩薩がある。
新天王橋は、都道7号線(五日市街道)が通る橋で、往時は伊奈道とも呼ばれ、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭、織物などを江戸に運んだ道である。
現在の橋は、昭和45年(1970)に架け替えられており、親柱の上には街灯が付けられている。
新天王橋から北側の玉川上水緑道を進むと、程なく稲荷橋がある。
稲荷橋の名前の由来は、橋の南詰に稲荷神社があることによるが、橋に親柱は無く、橋標も橋下の側面に小さな橋標が貼られているだけである。

玉川上水ふせこし 新家橋 見影橋 巴河岸跡
玉川上水は、ここで下流を横断する残堀川の地下を潜って、その先で再度浮上する。
これはサイホンの原理によって残堀川の地下で立体交差して下流で浮上する 「伏せ越し」 という方法である。
ここには、残堀川に架かる車道の 「上水橋」 とその脇の歩道橋 「すずかけ橋」、その南側に 「上宿橋」 がある。
玉川上水ふせこしを過ぎると、親柱が木柱をイメージした造りの新家橋がある。
新家橋は、屋号を 「しんや」 と呼ぶ農家の裏に架けられている橋なので、「しんやばし」 と呼ばれている。また、砂川村の中で、一の橋と呼ばれた上流の天王橋から数えて三つ目の橋だったので、「三の橋」 とも呼ばれていた。寛政3年(1791)の 「上水記」 には、作場橋(耕作地へ向かう橋)として書かれている。
続いて親柱と欄干が鉄製の見影橋がある。
見影橋は、江戸時代から架かっていた橋で、当時は村を流れる玉川上水の、上流から四番目の橋だったので 「四ノ橋」 と呼ばれていた。また、名主の屋敷に近いこともあって 「旦那橋」 とも呼ばれた。
橋が広げられるまでは、袂に明治初めの名主家当主の名前にちなんだ 「源五右衛門分水」 の取入口があった。
見影橋の下流に巴河岸跡がある。
明治時代初め、玉川上水に舟を浮べ、物資を東京に運ぶことを、当時の砂川村の名主・砂川源五右衛門たちが政府に願い出た。舟運は、明治3年(1870)に開始されたが、衛生上の理由から、明治5年には廃止された。この巴河岸は、玉川上水が舟運に利用されていた時の船着場で、伊勢の人・巴屋某が船頭をしていたため、巴河岸と呼ばれるようになったという。

小橋 金比羅橋 宮の橋 千手橋
巴河岸を過ぎると直線だった玉川上水が大きく南に曲がっていき、金比羅橋の手前の竹林のところに小さな橋が架かっている。
現在使用されている橋ではなく、堰でもないので全く不明の橋である
玉川上水が大きく南にカーブしたところに架かっているのが金毘羅橋で、都道55号線が通っている。
このカーブには理由があり、立川断層が北か南に傾斜していることから、これを迂回するように玉川上水が開削されたことによるという。金比羅橋の名前は、橋の南西にある金比羅大権現に由来する。
玉川上水が次第に北寄りに向かっていくところに丸太を模して造られた宮の橋がある。
宮の橋の名前は、橋の南側を通る五日市街道沿いの阿豆佐味神社と言われるが、やや遠いように思われる。
宮の橋の下流は、雑木林の中をさらに北寄りに向かっていく。
宮の橋を過ぎて雑木林の玉川上水緑道を進むと、千手橋(車道)と千手小橋(歩道)がある。
近くに寺社仏閣は無く、千手橋の名前の由来は不明である。
この付近で立川断層を迂回した玉川上水は、巴河岸跡からの直線上に軌道修正しており、両岸に玉川上水緑道の雑木林が続き、武蔵野の面影が残るところである。

清願院橋 小平監視所 玉川上水清流の復活 西中島橋
玉川上水緑道の雑木林から突然開けたところに清願院橋がある。
請願院橋の北詰には、西武拝島線の玉川上水駅があり、その上を多摩都市モノレールが通っている。清願院橋は、江戸時代からある古い橋であるが、羽村村に架かる上流から8番目の橋で 「八ノ橋」 との記録はあるが、清願院橋の名の由来は不明である。
清願院橋の下流400m程のところに小平監視所があり、羽村堰で取り入れた多摩川の水はここで土砂やゴミの除去が行われ、地下導水管で東村山浄水場へ送られている。
これより下流は清流復活区間として、多摩川の水ではなく、多摩川上流水再生センター(昭島市にある下水処理場)で処理された高度下水処理水を放流している。また、ここは野火止用水が玉川上水から分岐する場所(取水口)でもある。
小平監視所の下流は、昭島市の下水処理施設で処理された高度下水処理水が放流されており、放流地点には 「上水小橋」 と呼ばれる人道橋が架けられている。
下流の玉川上水緑道は、雑木林の道で落ち葉がたくさん有り、ふかふかの道である。
西中島橋は、左岸(北側)の小平市中島町と右岸(南側)の立川市幸町を繋いでいる人道橋である。昭和62年3月と刻まれていることから、両岸にあるアパートや団地のために架設されたのではないと思われる。

小川橋 東小川橋 くぬぎ橋 百石橋
小川橋は、都道16号線と都道144号線が通る橋で、玉川上水に架かる古橋の一つである。
小川橋は、車道で車の往来が激しいため、両側に歩道橋が施設されている。
小川橋の南詰には、天保13年に石橋に架け替えられた時に建立した石橋供養塔が建っている。
小川橋から程なく、親柱と欄干が丸太を模した造りで、周囲の雑木に溶け込んだ東小川橋がある。
江戸時代は、北側の青梅街道沿いにある小川寺に通じる橋であることから、寺橋と呼ばれていたという。
くぬぎ橋は、玉川上水緑道にたくさんあるクヌギからきた名前であろう。
左岸(北側)にある数個の児童遊園や都立小平西高等学校と右岸(南側)の大きな立川若葉町団地を繋ぐ人道橋で、昭和59年4月に架設された。
くぬぎ橋の直ぐ下に百石橋がある。
この辺りは、江戸時代の開拓を経て広がる一帯を「百石畑」 と呼ばれていたという。
そこで、その名残や面影が、この地域に受け継がれるよう 「百石橋」 と命名された。小平市では、百石橋の建設に当たって、玉川上水への影響が最小限になるように、遺構調査の実施や橋梁形式等の検討を経て、整備を行ったという。

寺橋 いこい橋 栄光橋 水車橋
右岸(南側)は住宅地が続き、左岸(北側)に朝鮮大学校・武蔵野美術大学のあるところに寺橋がある。
寺橋の名前は、北側の青梅街道沿いにある小川寺に通じる橋であることに由来するという。現在の橋は、昭和47年7月に架け替えされた人道橋である。
寺橋の下流左岸(北側)には、白梅学園大学・高等学校、小平市立第五中学校などがあり、玉川上水脇に上水公園があるため、昭和50年に人道橋が架設された。
いこい橋の名前は、小平市民からの公募により付けられたという。
いこい橋の下流に導水管らしき鉄管が横切り、その下流に玉川上水緑道も跨ぐ栄光橋がある。
この橋は、左岸(北側)の創価学園専用の橋で、右岸(南側)にある創価学園のグラウンドへ渡るための橋である。
水車橋は、昭和60年(1985)に新小川橋の脇に架けられた人道橋である。
この辺から、西陽が低くなり、玉川上水堀が良く見えなくなってきたので、辛うじて見えるところだけ上下流域を撮って行く。
水車橋の名前は、左岸(北側)にある小島精米店にかつて有った水車小屋に由来するという。

新小川橋 鷹の橋 東鷹の橋 久右衛門橋
水車橋の直ぐ下に新小川橋がある。
この橋は、かつて三左衛門橋と呼ばれた古くからある橋である。
鷹の橋付近は、雑木林が密集しており、直ぐ脇に西武国分寺線が通っている。
鷹の橋の上下流は、素掘りの垂直な壁面が見られ、清流復活の前までは関東ローム層の土がボロボロと崩れていたという。
鷹の橋は、昭和34年(1959)に初めて櫓組式の木製で架設され、その後、昭和40年(1907)にコンクリート製の橋に架け替えられた。橋の名称は、左岸(北側)にある鷹の台駅に由来する。
西武国分寺線を越えると東鷹の橋がある。
この橋は、左岸(北側)にある小平中央公園へ渡る人道橋である。
上下流域は、素掘りの垂直な壁面が続いている。
更に玉川上水緑道を下ると、都道17号線(府中街道)を結ぶ久右衛門橋がある。
この橋は、享保年間に徳川吉宗により新田開発が奨励され、これにより玉川上水の南側の新田開発が行われ、この開発に伴って初めて架けられたと言われている。
久右衛門橋の橋名は、名主久右衛門の名前に由来している。

鎌倉橋 小松橋 小川水衛所跡 商大橋
久右衛門橋の下流左岸(北側)にある津田塾大學を過ぎ、その下流に都営アパートが見えるところに鎌倉橋がある。
鎌倉橋は、親柱・欄干を丸太に模した造りの人道橋で、橋名はこの付近を南北に通っていた鎌倉街道に由来する。
左岸(北側)の都営アパートが途切れる辺りに木造人道橋の小松橋がある。
かつて、都営アパートの一帯はアカマツ林が広がり、松ヶ丘と呼ばれていたことが、橋名の由来と言われる。
小松橋から50m程下ったところに小川水衛所跡がある。
橋の上流側に鉄柵が設けられており、今でもここで枯れ枝・落葉・ゴミなどを取り除いている。江戸時代の水番所に代わって設けられた水衛所は、熊川・砂川・小川・境・久我山・和田堀・代々木・四谷大木戸にあった。
水衛所跡の右岸(南側)には、五日市街道が喜平橋まで続いている。
小川水衛所跡の直ぐ下流に商大橋がある。
商大橋の左岸(北側)には、一橋大学があり、その前身である東京商科大学があったことから、「商大橋」 と名付けられた。
現在の橋は、木柱を模して造られたもので、平成2年3月に拡幅して架け替えられたものである。

一位橋 桜橋 八左衛門橋 上水南町稲荷神社
商大橋の下流約50mほどのところに、人道橋の一位橋がある。
かつて、この付近に常緑針葉澍で小さな赤い実をつけるイチイがあったことから、「一位橋」と名付けられたという。
玉川上水緑道を下ると、西武多摩湖線と並行して架かる桜橋がある。
桜橋は、昭和3年から昭和28年間まで国分寺駅と一橋学園駅の間にあった、桜堤駅に因んで名付けられた橋である。
桜橋と並行する西武多摩湖線の脇に、やや古めかしい歩道橋がある。
桜橋の直ぐ下流に八左衛門橋がある。
八左衛門橋は、小平市喜平町の旧家で、組頭を勤めた滝島八左衛門が架けたので、この名が付けられた。滝島家は、明治3年~5年に玉川上水に通船されたとき、小平の船持5軒のうちの1軒で、物資の輸送に当たるとともに、八左衛門橋の袂に茶店を設け、上水舟行の船頭たちの休憩場を提供していた。下流右岸(南側)の五日市街道沿いに馬頭観音が建っている。
八左衛門橋の南詰からは見えている鳥居は、上水南町稲荷神社である。
この稲荷神社は、江戸時代に開発された北野中新田の飛び地である堀端野中の鎮守として、元文元年(1736)に組頭の六左衛門などが、稲荷神社を勧請遷祀るしたと伝えられている。

山家橋 喜平橋
八左衛門橋から100mほど下流に人道橋の山家橋がある。
橋の北側に小川新田の山家集落があったことから、この名が付けられた。この橋は、昭和50年9月に架け替えられたもので、親柱・欄干が丸太を模した造りになっている。
喜平橋は、県道132号線がとおり、都道7号線(五日市街道)が左岸(北側)から右岸(南側)へ抜けるところである。
この橋は、小平の新田開発の一つである堀野中新田の組頭であった喜兵衛が住んでいた家の傍にあったことから 「喜兵衛橋」 と呼ばれ、いつしか 「喜平橋」 と書かれるようになったという。陽が傾き、上水堀が良く見えないため、今日はここで終了する。

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