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前へ  羽村取水堰~喜平橋

玉川上水 ②

 玉川上水開削前は、寛永6年(1629)頃完成した井の頭池・善福寺池・妙祥寺池の湧水を水源とする神田上水があったが、慶長14年(1609)頃に江戸人口が約15万人に増加すると神田上水だけでは足りなくなり、承応元年(1652)、幕府は工事請負人を庄右衛門・清右衛門兄弟(墓所は台東区の聖徳寺にある)に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱(墓所は川越街道近くの平林寺にある)を命じた。
 工事は、承応2年(1653)4月に着工し、その年の11月には、羽村取水口から四谷大木戸までの全長約43kmの素掘り水路が完成した。

平成29年1月18日(水)   ☀    喜平橋 ~ 四谷大木戸跡  約23.0㎞
昨日の続きで、本日は喜平橋から四谷大木戸跡までであるが、途中の境橋までは平成28年4月の五日市街道歩きで通った部分であり、今回は逆を行くことになる。この時期は、まだ日が短いので夕暮れにならないように辿り着きたい。

喜平橋 小桜橋 茜屋橋 貫井橋
早朝にも拘わらず、喜平橋は国分寺街道と五日市街道が交差するところであり、交通量が多い。
写真では影のためよく分からないが、こは喜平橋の下流側に設けられたポケットパーク部分である。
喜平橋の下流300m辺りに人道橋の小桜橋がある。
この橋は昭和48年8月に架けられたもので、右岸(北側)にある小平市立小平第三小学校の通学路でもある。
小桜橋の上下流域。
茜屋橋は、都道248号線(新小金井街道)が通る橋で、片側2車線の幅のある橋で、上下流部分に欄干が丸太風の歩道がついている。
茜屋橋は、明治初年に材木を3本かけ渡しただけの簡単な橋であり、明治の初め木材業を営む傍ら、この一帯は 「茜草(染料)」 を盛んに栽培しており、その元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことから、この名が付いた。
茜屋橋から4~500m下流に貫井橋がある。
貫井橋は、鈴木新田開拓者の鈴木利左衛門が貫井村の本家から新田に通うために架けた橋で 「上水記」 にも記載されている古橋の一つである。
この付近の玉川上水緑道には櫻並木が続ているが、上水堀は雑木・灌木に覆われて見通すことができない。

小金井橋 小金井桜碑 行幸の松と碑 御成の松跡
貫井橋の下流にある小金井橋は、都道15号線(小金井街道)が通り、橋の北詰で五日市街道と交差している。
小金井橋は、「上水記」 にも記されている古橋で、この付近に武蔵七井の一つである名水黄金井があったことに由来するという。
小金井橋の上下流域。
小金井橋北詰めの上流側に大正14年(1925)の小金井桜碑が建っている。
小金井桜の名で知られる玉川上水の桜並木は、武蔵野新田の開発が行われた元文2年(1737)頃、川崎平右衛門等が新田の賑わいのため、吉野(奈良県)や桜川(茨城県)から山桜の名品種を取り寄せ、小金井橋を中心とする玉川上水堤の両岸約6kmに植えたものである。
この碑は、吉野・桜川と共に名勝に指定されたことを記念して建立された。
小金井桜碑の上流15~16mところに行幸の松と行幸松碑がある。
この松は明治16年(1883)4月23日、明治天皇が御乗馬で3人の親王とともに、小金井堤に観桜で見えられたことを記念して、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えた松である。傍らにある行幸松碑は、明治35年(1902)、この松が見事に成長したため、海岸寺の住職玄恪が地元有志とはかって、この松の由来を記して建立したものである。
小金井橋北詰の下流側に御成の松跡がある。
ここは天保15年(1844)第13代将軍家定一行が花見に訪れ、当日はあいにくの大雨であったというが、家定は馬から下りて堤を歩き、御座所を設けて花見の宴を催したところである。
この家定の御成りを記念して里人が一本の黒松を植え 「御成の松」 と呼ばれていたが、黒松は惜しくも平成6年に枯れてしまった。

玉川上水緑道 陣屋橋 新小金井橋 真蔵院
下流の千川上水分岐まで約6㎞の直線の道が続く。
平成28年4月の五日市街道歩きでは新緑が美しかったが、葉の無い時期は空が開けて、また清々しいものである。
小金井橋の下流400mほどのところに陣屋橋がある。
玉川上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋が置かれ、武蔵野新田世話役に登用された川崎平右衛門定孝の手代高木三郎兵衛が常駐していた。このことから、この橋は陣屋橋と名付けられ、周囲の雑木に馴染むような丸太を模した造りになっている。
陣屋橋の直ぐ下流に新小金井橋がある。
新小金井橋は、都道7号線(五日市街道)と南側の上水桜通りを結ぶ橋である。
新小金井橋の上下流域。
玉川上水左岸(北側)に真言宗豊山派の慈眼山真蔵院普門寺がある。
真蔵院は、西多摩郡御岳山中の廃寺世尊寺の塔頭であったものを延享2年(1745)にこの地に創建したと伝えられ、関野新田の開拓者関勘左衛門の父甚五左衛門を開基とし、その法号をとって寺号としたという。
境内には、武蔵野新田開発に尽力し、玉川上水堤にヤマザクラ並木を植樹した川崎平右衛門定孝の供養塔などがある。

平右衛門橋 関野橋 桜樹接種碑 ケヤキの伐採
玉川上水左岸(北側)にある小金井公園正面に位置するところに平右衛門がある。
平右衛門橋は、平成27年(2015)7月に架けられたもので、橋の名は市民の公募により、武蔵野新田開発に尽力し、玉川上水堤にヤマザクラ並木を植樹した川崎平右衛門定孝に因んで付けられたものである。
平右衛門橋の上下流域。
平右衛門橋から2~300m程下流で、都道247号線が通る関野橋がある。
関野橋は、享保9年(1724)下小金井村の名主関勘右衛門が玉川上水の北側一帯(現在の関野町)を開拓したことから、関野新田と呼ばれ、橋も関野新田橋と呼ばれていたが、その後、関野橋と改称された。
現在の橋は昭和41年(1966)に架設されたものである。
関野橋の下流左岸30m程のところに嘉永4年(1851)の桜樹接種碑が建っている。
この石碑は、田無村の名主下田半兵衛が補植の経緯を後の世に伝えるとともに、桜樹が永久に植え継がれ、保護されることを願って建てたものである。
表面には 「さくら折るべからず」 と刻まれ、裏面に 「桜樹接種記」 と題して経緯などが刻まれている。
桜樹接種碑の下流のケヤキには、赤いテープが巻かれ、「No.179ケヤキ伐採C:164」 などの標識が付けられている。
上水堀脇には、伐採されたケヤキが山積みされている。

梶野橋 桜堤歩道橋 新橋 旧千川分水口跡
梶野橋は、享保年間(1716~1736)上小金井村の名主・梶野藤右衛門が開いた新田に架けられた橋で、橋の南側ある小金井市梶野町一帯が、かつての梶野新田にあたる。
現在の橋は、昭和40年2月に架けられたもので、橋の下流域は灌木の伐採が行われていないため、ジャングル状態である。
梶野橋の200m程下流に桜堤歩道橋がある。
この歩道橋は、右岸(南側)の一方通行路から玉川上水を越え、更に左岸(北側)の五日市街道を渡る歩道橋である。
桜堤歩道橋の直ぐ下に新橋がある。
新橋という名の橋は、上流の福生駅から延びる都道165号線と奥多摩街道が交差する所にもあったが、この橋は木造りを模した人道橋である。
新橋の下流左岸(北側)に、昭和41年(1966)まで使われていた千川上水分水口跡があり、石垣の分水堤と水門巻揚機が残っている。

曙橋 くぬぎ橋 もみじ橋 境橋
旧千川分水口跡の直ぐ下に曙橋がある。
曙橋は、昭和58年(1983)1月に架けられた木造を模した人道橋であり、橋下にはたくさんの鯉が泳いでいる。
曙橋の下流100m程のところにくぬぎ橋がある。くぬぎ橋という名は、上流の小平区間に架かる人道橋にも使われていたが、こちらの車が往来する橋も、玉川上水緑道に多いクヌギに由来すると思われる。 くぬぎ橋の下流200m程のところに、丸太を模した造りのもみじ橋がある。
この橋の上下流域は、灌木が繁茂しているが、橋からは上水堀が見えており、下流には鯉が群れている
もみじ橋の直ぐ下に、都道123号線が通る境橋があり、橋の北詰で都道7号線(五日市街道)に合流している。
境橋の名前は、出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏が、御用屋敷のあった場所を幕府より貰い受けて開発した 「境新田」 に由来する。
ここは、千川上水の分岐でもあり、玉川上水から分かれた水は、五日市街道に沿って北東へ向かっている。
玉川上水の碑 境水衛所跡 うど橋 独歩橋
境橋の下流左岸(北側)に、昭和56年(1981)7月に日本紀行文学会が建立した 「史跡玉川上水の碑」 がある。 玉川上水の碑のすぐ下流に境水衛所跡があり、今でも枯れ枝などが除去されている。
ここは江戸時代の水番所に代わって設けられた8ヵ所の水衛所のうちの一つであり、
分水口の監視・塵芥の除去などを担当していた。
昭和40年(1965)の淀橋浄水場の閉鎖に伴い、小平監視所から下流の水衛所は閉鎖されたが、ここには、かつての塵芥除去に使われていた鉄柵が残っている。
境水衛所下流にある 「うど橋」 の名前は、東京のうど栽培に由来する。
橋の北側渡り詰めにある 「独活の碑」 には、天明5年(1785)頃から、この土地の人々は薪炭をつくり、または落葉の温熱で軟化独活を栽培し生活していたが、近年栽培法がいろいろと改善されて、全国に東京うど特産地として有名になり、玉川上水への橋をかけられるのにあたって、独活橋と命名したと刻まれている。
うど橋の下流150m程のところに独歩橋がある。
独歩橋は、昭和44年(1969)に南側宅地の造成に伴って架けられた橋である。
橋の名前は、この周辺の武蔵野の面影を残す雑木林をこよなく愛した国木田独歩に因んで付けられたものである。

櫻橋 境浄水場正門 松美橋 大橋
独歩橋から更に150m程下流に、都道12号線(武蔵境通り)が通る櫻橋がある。
櫻橋は、JR中央線の前身・甲武鉄道の開業に伴い、境駅から田無方面に至る道路が開かれた際、玉川上水に架けられた橋である。
橋の北詰には、国木田独歩の武蔵野第6章冒頭の一説が刻まれた文学碑があり、南詰下流側にはここをしばしば訪れた芸術院会員御歌所寄人千葉胤明の記念碑がある。
櫻橋の北詰東側に東京都水道局境浄水場がある。
境浄水場は、村山貯水池から原水を地下の導水管で引き入れ、沈殿・濾過した浄水を和田堀給水所へ送っている。
浄水場の脇を流れる玉川上水とは、直接関係していない
境浄水場脇の玉川上水緑道を300m程進んだところに松美橋がある。
松美橋の北詰は、境浄水場の中間辺りに位置し、橋名はこの辺りにあった赤松に由来するといわれ、昭和54年(1979)に架けられた、親柱と欄干が丸太を模した造りの橋である。
松美橋の下流にある大橋は、平成29年2月28日まで架け替え工事が行われている。
大橋は、玉川上水ができた承応3年(1654)以降に現在の武蔵野市域内で最初に架けられた橋のうちの一つである。
大橋には、深大寺の元三大師堂へ行く道が通り、大師道とも呼ばれており、橋名はこの大師道に由来するとも言われている。

いちょう橋・ぎんなん橋 けやき橋西交差点 欅橋 三鷹橋
大橋の下流で、左岸の境浄水場のフェンスが終了する辺りに、いちょう橋が架かっている。
いちょう橋には、都道12号線が通り、下流に隣接して人道橋の 「ぎんなん橋」 がある。
かつて、ここには中島飛行機武蔵製作所という軍需工場への引込み線があり、橋台が遺構として残っていたが、その橋台の上に架けられたのが 「ぎんなん橋」 である。
下流左岸(北側)の西久保公園を過ぎると、玉川上水は、けやき橋西交差点で暗渠となり、交差点を越えたところで開渠となる。 JR三鷹駅に近いところに、都道121号線(三鷹通り)が通る欅橋がある。
元々は安政年間(1854-59)の架橋と言われ、当時は欅の丸太を渡した橋であったので、その名が付いたという。玉川上水は、ここで暗渠となり、橋幅は広いが橋長が無いため、橋という感じはしない。
橋の南詰めには、庚申供養塔と観世音碑が安置されている。
欅橋で暗渠となった玉川上水は、JR三鷹駅の下を潜って駅の南東で開渠となり、そこに三鷹橋が架かっている。
三鷹橋は、昭和32年(1957)6月に架けられ、構造材の一部に鉄道のレールを活用していたが、駅前広場の整備に伴って、平成17年(2005)3月に旧三鷹橋の親柱・高欄のデザインを活かして架け替えられた。

むらさき橋 山本有三記念館 萬助橋 ほたる橋
三鷹橋の下流に 「むらさき橋」 がある。
この橋は、三鷹市と武蔵野市を結ぶ都市計画街路の一部として、両市により昭和30年(1955)11月に架けられた。現在の橋は、平成10年(1998)3月に架け替えられたものであり、橋名は旧橋完成の際に両市民の公募により、選定されたものである。
昔この辺り一面に咲き誇っていた紫草で染め上げた 「むらさき染」 に因んでいる。
むらさき橋から右岸(南側)の 「風の散歩道」 を進むと、右手に山本有三記念館がある。
この記念館は、作家山本有三が昭和11年(1936)から昭和21年(1946)まで、家族と共に住んだ家である。
有三はここで代表作 「路傍の石」 や戯曲 「米百俵」を執筆している。
玉川上水左岸(北側)から正面にかけて、こんもりとした林が見えると萬助橋に出る。
萬助橋は、都道114号線(吉祥寺通り)が通り、下流域は神田川の源流でもある井の頭公園になっている。
橋名は、安政年間(1854-59)に下連雀村の地主であった渡邉萬助が、近くの大盛寺境内の杉の木をふたつに割って架けたことに由来する。現在の橋は、平成6年(1994)に架け替えられたものである。
井の頭公園内を流れる玉川上水に沿って2~300m程進むと、ほたる橋がある。
この辺りは、ホタルが生息する場所でもある事から、この名が付けられたようである。
雑木や灌木に覆われた上水堀は、小川のように細くゆるやかに流れており、橋の南詰に水神と思われる祠がある。

牟礼分水堰 幸橋 新橋 松影橋
ほたる橋の下流20m程のところに牟礼分水の堰が残っている。
牟礼分水は、牟礼村の田畑に水を供給するために開削された用水路であるが、昭和34年(1959)に埋め立てられた。
この近くの右岸(南西側)に小鳥の森と称されるところがあり、木の衝立越しに小鳥を観察できる。
井の頭公園の林を抜けたところに、親柱と高欄が木製の幸橋がある。
この辺りの上水堀は灌木に覆われており、水量もかなり少なくなってきている。幸橋の下流右岸には、ナザレ修道院が開放している森の児童遊園がある。
森の児童遊園を過ぎると新橋がある。
新橋という名の橋は、上流の福生市と武蔵野市に次いで3つ目の橋である。
この辺りから上水堀は深くなっていくが、これは丘陵の曲がりくねった等高線に沿って、斜面を横切って玉川上水が開削されたことによるという。
新橋の先を東に300m程進んだところに松影橋がある。
松影橋は、上水堀からはかなり高い所に架けられた橋である。この位置から上水堀まで素掘りしたことになるが、相当の期間を要したことだろう。
松影橋から玉川上水は南東に蛇行しており、右岸の法政大学附属中学・高等学校脇の玉川上水緑道は快適な道となる。

井の頭橋 若草橋 宮下橋 東橋
法政大学附属中学・高等学校前からの坂道を下ると井の頭橋がある。
橋の北詰の道をどんどん北に進むと井の頭弁財天に出ることから、井の頭橋と呼ばれるようになったという。
井の頭橋付近では、玉川上水は一気に浅くなっている。
井の頭橋から緩やかに曲がって、東に進むと若草橋がある。
若草橋は、丸太橋をイメージした人道橋である。
若草橋から南に90度ほど回り込んだところに橋桁がアーチ状になった宮下橋がある。
宮下橋の名前は、南側の高台にある牟礼神明社に由来する。牟礼神明社は、天文6年(1537)北条氏綱の家臣北条冶部少輔綱種(牟礼の高橋家の祖)が深大寺城に対峙した際、当地(高番山)陣内守護として飯倉神明宮の御分霊を勧請して創建された。
上水堀は、宮下橋の下流で再び深くなり、コンクリートで護岸されている。
玉川上水が東に流路を変えるところに、木橋をイメージした東橋がある。
東橋の北渡詰めに由緒の不明な東橋標石があり、橋の下流右岸の玉川上水緑道はかなり狭くなっている。

長兵衛橋 どんどん橋 牟礼橋 久我山水衛所跡
東橋から200m程下流に長兵衛橋がある。
この橋は、牟礼村の長兵衛が自費で架けた橋と言われ、現在の橋は木橋をイメージしている。
長兵衛橋から200m程下流の人見街道の手前に橋桁がレンガ造りのアーチ状になった 「どんどん橋」 がある。橋名は玉川上水がドンドンと水音を響かせながら流れていたことに由来している。このアーチ型の橋は、大正時代に架けらた旧牟礼橋である。
橋の北詰に道標を兼ねた 「どんどん橋」 標石があり、その脇に「石橋建立供養之碑」が建っている。
どんどん橋の脇に架かる橋は、都道14号線(人見街道)が通る牟礼橋である。
この橋は、旧牟礼村の一番東にあったため、東橋と呼ばれたこともあったが、旧久我山村では牟礼橋と呼んでいた。
現在、下流側の両岸で東京都市計画道路幹線街路放射第5号線の整備事業が行われており、迂回して下流に行く。
牟礼橋から300m程下流のところに久我山水衛所跡があり、塵芥除去の鉄柵が残っている。
ここは江戸時代の水番所に代わって設けられた8ヵ所の水衛所のうちの一つであり、分水口の監視・塵芥の除去などを担当していた。
この下流右岸に水難者慰霊碑が建っており、裏面に文字が刻まれているので後で調べると、これは金田一京助が玉川上水で亡くなった四女を偲んで詠んだ歌碑である。

兵庫橋 岩崎橋 北沢分水堰 暗渠入口
久我山水衛所跡の直ぐ下流に兵庫橋がある。この橋は古くからある橋で、橋名は小田原北条氏の家臣でこの地に土着した大熊兵庫が架橋したことに由来する言われている。
兵庫橋の上下流域。
兵庫橋の下流200m程のところに久我山駅へ通じる松葉通りが通る岩崎橋がある。
岩崎橋の名前は、橋の南側にある岩崎通信機(株)がこの地に移転してから付けられたものあり、かつては樋口橋と呼ばれていたようである。
現在、上水堀の右岸上下流域と左岸下流域は、玉川上水緑道の整備工事中である。
岩崎橋の下流に小さな堰跡が残っているが、これは北沢川への分水のためのもので、北沢川は玉川上水からの分水により水量を確保していた。 玉川上水緑道を600m程進んだところで、暗渠となり、この先は地名などで面影を追うことになる。
ここを浅間橋跡とする資料もあるが、この先の浅間橋歩道橋の辺りが旧浅間橋付近と言われている。
現在、北側は玉川上水に沿って東京都市計画道路放射第5号線の工事が行われている。

浅間橋付近 昌栄橋付近 天神橋付近 第六天神社
暗渠から20m程下流付近の都道14号線に架かる浅間橋歩道橋付近が浅間橋のあった辺りである。
この北側には富士見ヶ丘と名の付く施設が多くあり、かつては富士山を望むことが出来たところであり、富士浅間神社もあったが、現在はこの先の第六天神の末社となっている。
烏山寺町散歩道と言われる都道14号線沿いの歩道を進むと左手に杉並区昭栄公園があり、その先に都道14号線に架かる昌栄橋歩道橋がある。
この付近に昌栄橋があったという。
更に進むと都道14号線の北側に第六天神社があり、その前に天神橋歩道橋が架かっている。
この付近に天神橋があったと言われ、橋名は旧高井戸村の鎮守であった第六天神に由来する。
第六天神社の創建年代等は不詳であるが、鎌倉時代の創建と伝えられ、古くから上高井戸の鎮守社であったという。
明治5年11月に村社に列格、その後、明治30年に村内字伊勢にあった神明社(天祖神社)と、字前山にあった浅間社(浅間神社)の両社を境内末社として遷移した。
境内には、明和8年(1771)の狛犬、安政7年(1860)の常夜燈などがある。

中の橋付近 庚申橋付近 玉川上水第二公園 小菊橋
第六天神社から程なく都道14号線と環状八号線が交差する中の橋交差点がある。
この付近に中の橋があったという。
中の橋歩道橋から20m程進んだところに庚申橋歩道橋が架かっている。
この付近にあった庚申塔に由来する庚申橋があったというが、その庚申塔は近くに見当たらない。
庚申橋歩道橋の下流側左手に東京身代り不動尊がある。
都道14号線が国道20号線(甲州街道)と合流する地点の左手に玉川上水第二公園がある。
この公園は、玉川上水の跡地に造られた公園で、上水堀の流れのまま蛇行しており、ここから下高井戸橋までの間に旭橋・八幡橋などいくつかの橋があったようだが、その痕跡は残っていない。
公園内には、所々に空気弁・伸縮管などの鉄蓋があり、玉川上水をイメージした小さな流れも造られている。
玉川上水第二公園をかなり進んだところに、レンガ造りの橋をイメージした小菊橋がある。
かつて、この付近の玉川上水には橋が架かっていなかったため、この辺りの地主吉田甚五郎が私財を投じて建造したもので、橋名は、この辺り一帯に咲いていた小菊に由来するという。

下高井戸橋 築地本願寺和田堀廟所 塩硝蔵地跡 明大橋
右手に首都高速道路が近接したところに、都道427号線が通る下高井戸橋がある。
この付近の公園敷地は、周囲より低い所にあり、ここが玉川上水の跡であることが良くわかる場所である。
下高井戸橋から下流方向に続く公園は、玉川上水永泉寺緑地となる。
国道20号線(甲州街道)に出て間もなく左手に築地本願寺和田堀廟所がある。
大正12年(1923)の関東大震災で築地本願寺が罹災し、再建にあたって境内にあった多数の墓地を移転する必要にせまられ、当時の大蔵省所管だった陸軍省火薬庫跡地約一万一千坪の払い下げをうけ、築地から仮本堂として使用されていた建物などを移築したのが、和田堀廟所である。
和田堀廟所から続く北側の段上に塩硝蔵地跡の解説板が建っている。
この一段高くなったところに導水管が通っていると思われる。
明治大学和泉校舎の入口の前に明大橋の遺構がある。
明大橋から下流方向は、玉川上水公園となり、京王井の頭線を跨いで、その先で井の頭街道に突き当たる。

久左衛門橋 和泉水圧調整所 代田橋付近 開渠口
京王井の頭線を跨いだ導水管は、再び姿を消し、公園の地下に潜る。
公園を進むと、先に大きな白いタンクが見える辺りで、公園を横切る道路に久左衛門橋がある。
井の頭通りに面して東京都水道局和泉水圧調整所がある。
ここは、かつて淀橋浄水場建設に合わせて造られた新水路と玉川上水との分岐点であり、江戸時代には玉川上水和田堀水衛所があった辺りである。
玉川上水に架かっていた代田橋は、甲州街道を渡ったところにあったと言われている。
この歩道橋には橋標が見当たらなかったが、歩道橋には 「代田橋駅前」 と記されてその名が残っている。
代田橋駅前歩道橋を渡って、国道20号線を20m程進むと、右手のポケットパークの下から玉川上水が開渠となる。
玉川上水は代田橋付近で、ほぼ直角に近い角度で東に曲がっており、開渠となった上水堀は京王線代田橋駅の下を通っている。

上水堀歩道橋 ゆずり橋 向岸地蔵尊 大原橋
京王線代田橋駅を潜った先で上水堀に架かる歩道協がある。
歩道橋を渡って、右岸から下流のゆずり橋に上がって行く。
上水堀の直ぐ下流に鉄パイプの欄干の 「ゆずり橋」 がある。
橋桁は赤レンガ造りでアーチ状になっており、平成3年に架け替えられた。
玉川上水は、このゆずり橋から再び暗渠となる。
玉川上水緑道を進むと、緑道公園の中に向岸地蔵尊が祀られている。
今から200年程前、この辺りに生まれつき身体が右に曲がっている向岸という人がおり、深く悲しんでいた。ある夜、大慈大師の地蔵尊が現れ、今後、世の為日夜念仏を唱えれば救われると言われ、絶えることなく念仏を唱えと、いつしか大きな講中となり、向岸亡き後、講中の人々が生前の徳を偲んで地蔵菩薩を建立したという。
玉川上水緑道が環状7号線に突き当たるところに大原橋の上流側の親柱と高欄がある。
環状7号線は、大原橋の手前の地下道を潜って渡るが、反対側に出ると大原橋の下流側の親柱と高欄がある。

稲荷橋 二号橋 南ドンドン橋跡 第三号橋
玉川上水緑道を200m程進んだところに稲荷橋がある。稲荷神社に由来する橋名であるが、この近くに稲荷神社は見当たらない。
稲荷神社の下流から開渠となるが、上水堀は谷川のように深く、下流に行くに従って浅くなっている。
上水堀がかなり浅くなったところに二号橋があり、上水堀はここから暗渠となり、京王線笹塚駅前を通って南へ向かう。 京王線笹塚駅前の公衆トイレの手前を通る道筋に南ドンドン橋の親柱が残っている。
親柱の裏側を見ると二本のパイプ跡があることから、この橋の欄干は二本のパイプが並んでいたと分かる。
橋名は、ここで上水の水が壁に突当り、どんどん音を立てて南へ方向を変えていたことに由来すると思われる。
京王線笹塚駅前で流路を南に変えて20m程のところに第三号橋がある。
上水堀はここから開渠となり、次の笹塚橋まで200m程続いて、再び暗渠となる。
第三号橋の袂には、渋谷区教育委員会の玉川上水解説が建っている。

笹塚橋 北澤橋跡 四條橋跡 五條橋跡
上水堀を200m程南下していくと笹塚橋があり、直ぐ下流で暗渠となる。
この先、暗渠となった玉川上水は、再び開渠となることはない。
笹塚橋から上水堀跡の玉川上水第二緑道を、かつての流路に沿って弧を描くように進むと、都道420号線(中野通り)に突き当たる。
この都道420号線を渡ったところに、北澤橋の親柱が2つ残っている。
北澤橋跡の50~60m程下流方向に石造りの四條橋跡がある。
造りなどから見ても、車止めを兼ねたモニュメントのようである。
四條橋跡から50m程下流方向に五條橋跡がある。
この橋も、おしゃれなデザインをした石橋で、車止めを兼ねたモニュメントのようである。

六條橋跡 常盤橋跡 相生橋跡 代々幡橋跡
五條橋跡から50m程下流に欄干に木の枝を配した六條橋跡がある。
地図を見ると南側に井の頭通りがあり、そこから北へほぼ等間隔で六本の道が東西に通っていることから、それぞれ四條橋・五条橋・六條橋と名付けられたと思われる。
六條橋跡から緩やかに右カーブした150m程のところに常盤橋跡がある。
この辺りから遊歩道は北東に曲がっており、右手に東京都消防学校があり、校庭で訓練を積んでいるのが見られる。
東京都消防学校を過ぎると相生橋跡がある。
この橋は、大正13年11月竣工のもので、遺構として親柱と高欄が残されたものである。
玉川上水跡遊歩道がやや東へカーブする辺りに代々幡橋跡がある。
代々幡橋の橋名は、代々木と幡ヶ谷の地名に由来し、旧親柱が植栽の近くに保存されている。

山下橋跡 美寿々橋跡 二字橋跡 西代々木橋跡
代々幡橋跡の直ぐ先に山下橋跡がある。
高欄部分のモニュメントは、水車をイメージしたものになっており、こちらも植栽の前に旧親柱が保存されている。
山下橋跡から30m程下流に美寿々橋跡がある。
この橋の両渡り詰めから、その先に続く道は無いので、それほど古くからあった橋ではないと思われる。
美寿々橋跡から東に100m程進んだところに、二字橋跡がある。
この橋を北側に進む道は、京王線の幡ヶ谷駅を通り、国道20号線(甲州街道)に通じている。
二字橋の名は、代々木と幡ヶ谷の二つの字の境にあることから付けられたと言われる。
古くは勘右衛門橋と呼ばれていた橋であるが、その後、西代々木橋と呼ばれ、現在は丸太橋をイメージしたモニュメントとなっている。

新台橋跡 代右衛門橋跡 初台親水施設 改正橋跡
上水堀跡を更に北東に進んで、左手に首都高速4号線の高架が見えるところに新台橋跡がある。
ツートンカラーでおしゃれなモニュメントが新台橋をイメージしている。
国道20号線(甲州街道)に最接近したところに代右衛門橋跡がある。
新台橋跡から代右衛門橋跡までの間に新代々幡橋という橋があったようであるが、遺構もモニュメントもなく不明である。
代右衛門橋は古くからあった橋で、明治初期に一時 「代々木橋」 と呼ばれていたという。
代右衛門橋跡の直ぐ先に、初台の親水施設がある。
水や川に触れることで水や川に対する親しみを深めることのできる施設と言うことであるが、この時期は水は流れておらず、閑散としている。
京王線初台駅(地下)前の通りに改正橋跡がある。
橋名は地名とも思えない変わった名であり、全く不明である。

伊藤小橋跡 三字橋跡 代々木橋付近 天神橋跡
改正橋跡から100m程進んだところに伊藤小橋跡がある。
伊藤小橋跡の下流方向には、
都道317号線(山手通り)の上を通る首都高速中央環状線の高架が見えている。
都道317号線(山手通り)を渡ると、直ぐ三字橋跡がある。都道317号線(山手通り)には、伊藤橋があったというが、遺構もモニュメントもなく不明である。
上流に二字橋という名の橋があったが、この三字橋も新町・初台・山谷という三つの字に由来する。
現在ある欄干はコンクリート製であるが、表面は剥がれており古いものであることが分かる
三字橋から駐車場となった上水堀跡を進むと明神宮西参道に突当り、大きな常夜燈が参道両脇に建っている。
この辺りに代々木橋があったというが、その遺構もモニュメントも残っていない。
代々木橋付近を越えて玉川上水旧水路代々木緑道を進んで行くと、文化服装学院の手前の道筋に天神橋跡がある。

勿来橋跡 千駄ヶ谷橋跡 葵橋跡 雷電稲荷神社
文化服装学院の正門前あたりに勿来橋跡がある。
勿来橋の名前は、江戸時代に福島の三春藩主であった秋田安房守が、この地に下屋敷を置いたことによる。
文化服装学院の前には、玉川上水の導水路の形を再現した半円のモニュメントがある。
勿来橋跡からやや北東に200~300m進んだところに千駄ヶ谷橋跡がある。
ここには親柱がひっそりと残されているが、向かいの葵通り入口の両脇には、千駄ヶ谷橋跡碑が建っている。
葵通りを進むと、T字路突当りの直前に葵橋跡がある。
この橋の名前は、この辺りに紀州徳川家の下屋敷があったことに由来する。この付近は、明治18年(1885)の新宿駅開設や、大正後期から昭和初期にかけての京王線・小田急線の開通などにより、多くの学者や画家・文人達が閑静な環境を慕って住んでいたところである。
葵橋跡からは新宿バスタの前を通り、新宿四丁目交差点へと抜ける。新宿四丁目交差点を越えた右手の路地角に雷電稲荷神社がある。
雷電稲荷神社の創建年代は不詳である、源義家が奥州征伐の途中雷雨にあい、小祠前で休んでいる時、一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだことから雷電神社と呼ばれるようになったと伝えられている。

旭橋と石樋 新宿御苑 四谷大木戸跡碑 四谷大木戸跡
先に進むと、東京都立新宿高等学校の敷地内に旭橋親柱と石樋が保存されている。
ほぼ消えかけた解説板によると、石樋は甲州街道と青梅街道の分岐する追分一帯の下水を御苑内の池に落とすため玉川上水の上に架けられたもので、旭橋の名前は、天龍寺門前一帯(現新宿四丁目)の元々の町名に由来するという。
新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部である。
新宿御苑内に入園することなく、正門左手の道路に沿った玉川上水・内藤新宿分水散歩道を進んで行くと、玉川上水に見立てた小さな水路が設けられている。
玉川上水の最終地点は、現在、東京都水道局新宿営業所となっており、一角に四谷大木戸跡碑・水道碑記が建っている。 東京都水道局新宿営業の先の四谷四丁目交叉点を渡ったところに石燈籠が建っているが、ここが四谷大木戸跡である。
ここで丁度日没となり、玉川上水の旅も終了である。

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