江戸時代のはじめ、多摩川の水を飲料水として江戸市中に供給する目的で開削された上水路です。羽村の取水口から四ツ谷(新宿区)に至るその開削は、幕府の命によって玉川兄弟が請負い、承応3年(1654)に完成、以後、今日に至るまで江戸・東京の主要上水として機能しています。
一方、この水は、水の乏しい台地上の村々にも多くの分水を通じて供給され、人々の農耕生活に重要な役割を果たしてきました。しかし、その使用に際して幕府の許可が必要で、また種々の制限も加えられ、人々はこれを自由に使うことは出来ませんでした。ここより上流の平和橋から、南方の拝島本村域方面に引水される拝島分水もそのひとつで、元文5年(1740)の開通、毎年冥加金(使用料)を上納し、生活・農業用として利用されてきたものです。
昭島市教育委員会
玉川上水緑道上にある 「つつじ橋」
堰
玉川上水緑道と玉川上水解説板