2基のうち、向かって右側が庄右衛門の墓。笠付きの角石墓塔で、梵字の下に楷書で「玉川本家先祖代々」とあり、さらに次の戒名が刻んである。
隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士
向かって左側が清右衛門の墓。先の尖った角石墓塔で、梵字の下に楷書で次の戒名が刻んである。
接取院殿贈従五位光誉照山大居士
従五位は、明治44年(1911)6月、政府により追贈されたもの。両墓石は大正12年(1923)の関東大震災で破損したが、昭和12年(1937)有志によって修復された。
台東区教育委員会
玉川氏兄弟墓碑修復記念碑
弟・清右衛門の墓
兄・庄右衛門の墓
玉川兄弟の墓解説
庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われているが、その出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍家綱の正応2年(1653)1月13日に幕命が下り、2月11日に着工された。工事費として幕府から7,500両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る43キロの導水部は、正応3年(1654)6月20日に完成した。その後、給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄8年(1695)に、弟の清右衛門は翌年の元禄9年に死去した。明治44年(1911)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
東京都教育委員会
浄土宗の用明山四天王院聖徳寺
玉川兄弟の墓
玉川庄右衛門・清右衛門墓解説
聖徳寺の創建年代は不詳であるが、聖実清公上人が創建したと伝えられている。京徳2年(1453)に加誉上人が浄土宗寺院として中興し、明暦3年(1657)の大火後に現在地に移転した。