「きのう山上げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落とし」 と筏乘り唄にうたわれたように、多摩川上流から伐り出す青梅材を江戸(東京)に搬出する筏乘りにとって、羽村の堰は最大の難所でした。
享保3年(1718)、江戸幕府は筏による堰の破損を理由に、堰通過を全面禁止しました。羽村以西の三田領42ヵ村の筏師仲間は、幕府に堰通行の再開を嘆願しました。享保6年、新たに筏通し場を設置し、特定の日時を限って通行が許可されました。以来、堰を下る戦場さながらの壮観な筏落としの風景は、大正末年ごろまで見かけられました。

兄は庄右衛門、弟は清右衛門といい、多摩川沿いの地域の農家であったといわれている。

「堰の筏通し場」 解説

玉川兄弟の銅像

多摩川の原水の流れ図

 昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。そうした治水の技術の一つが、水の勢いを弱め、堤防が崩れるのを防ぐ 「川鞍(かわくら)」 と名付けられ、のちに 「川倉」 と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、最も一般的なものは 「牛枠(うしわく)」 と言われています。
「牛枠」 は、堤防に植えた河畔林を切り出し組立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石を詰めた蛇籠で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。
かつて 「牛枠」 のほかにも、「聖牛(せいぎゅう)」・「笈牛(おいうし)」・「鳥脚(とりあし)」 などの 「川倉」 があり、あちこちの川で働いていました。しかし今日では、ほとんどその姿を見ることができなくなっています。

牛枠(川倉水制)解説

牛枠(川倉水制)の復元モニュメント

 羽村取水堰は投渡堰が用いられ、堰の支柱の桁に丸太や木の枝を柵状に設置する方法であり、大雨時に多摩川本流が増水した場合、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避する目的で、堰に設置した丸太等を取り払って多摩川本流に流す仕組みになっている。

羽村取水堰

第二水門上流の第一水門

第二水門下流域

第二水門と歩道橋