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神田川

神田川は東京都三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し、杉並区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、千代田区、台東区、中央区を流れて両国橋脇で隅田川に合流している。流路延長24.6km、流域面積105.0km²で東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠である。
天正18年(1590)に江戸に入府した徳川家康は、江戸の飲料水を確保するために平川(神田川の旧称)を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。

平成28年1月21日(木)~22日(金) ☀|☁   <歩き25.0㎞>
現在、井の頭池は水質改善や外来魚を駆除するなどのため 「かいぼり」 作業が行われており、池に水が無い状態である。今回のかいぼり作業では、池からたくさんの自転車が引き上げられ、最終的に200台近くになると言われている。
この井の頭池から神田川に架かる橋や川沿いの寺社仏閣に寄りながら隅田川まで歩くこととした。

井の頭池 弁財天 水門橋 よしきり橋
かいぼり作業で天日干し状態の井の頭池は普段見ることができない。
井の頭池の西北には3~4千年前の御殿山遺跡や徳川家康が鷹狩の際に茶を立てたことから 「お茶の水」 と呼ばれる湧水がある。
また、池の周囲には徳川家光がコブシの木に「井の頭」 と刻んだという徳川家光御切付旧跡碑・野口雨情歌碑・作曲家中田喜直のメロディー碑・弁財天などがある。
井の頭弁財天は、天慶年間(938-46) に関東源氏の祖・源経基が、伝教大師作の弁財天女像をこの地に安置したのが始まりと云われ、その後、建久8年(1197)に源頼朝が東国の平安を祈願して御堂を建立したと伝えられている。
境内左に七井不動尊があり、この七井とは井の頭池と呼ばれる以前の古い呼び名で、池中に湧水が七ヶ所あったことに由来している。
井の頭池から流れ出る最初の橋が水門橋である。
水門橋の傍らには、水門橋標柱・神田川碑がある。また、水門橋の脇には瓢箪池があり、ひょうたん橋の太鼓橋が架かっている。
京王井の頭線ガードの手前によしきり橋がある。橋標は無いが案内図に名前が載っている。
この橋は木橋のように見えるがコンクリート製の橋である。

夕やけ橋 神田上水橋 あしはら橋 丸山橋
京王線ガードを過ぎると右手に三角広場があり、そこから神田川に架かっている橋が夕やけ橋である。
夕やけ橋の上流は、神田川に降りて子供が遊べる唯一の場所である。
夕やけ橋の上下流域。
夕やけ橋で緩やかに右カーブした先にコンクリートに白のフェンスで何とも味気ない神田上水橋がある。
神田上水橋の上下流域。
神田上水橋と同様、生活橋で味気のない橋である。
あしはらという名前のようにこの橋の上下には芦が繁茂しているのか水草の株がいっぱい見えている。
あしはら橋の上下流域。
京王線三鷹台駅の前に架かる橋で、車が往来する割には小さな橋である。
上流は京王線が脇を走り、小公園があって近くで水鳥を見ることができる。
丸山橋の上下流域。

神田橋 みすぎ橋 緑橋 宮下橋
京王線三鷹台駅を回り込んで川沿いに出た先に神田橋がある。
神田上水橋に続く 「神田」 が冠された橋である。
神田橋の上下流域
みすぎ橋は三鷹市最後の橋で市境は橋のやや下にある。
三鷹市と杉並区に架かる橋でみすぎ橋というそうである。川沿いのフェンスの色も白から青に変わり、造りも全く違っている。
みすぎ橋の上下流域。
みすぎ橋同様に緑色に塗られた橋でその名も緑橋である。
緑橋の下流左側は桜並木で桜の季節は見事であろう。
緑橋の上下流域
緑橋から緩やかに左に曲がった先に宮下橋がある。
宮下は神社の下を意味し、この橋の左を入ると久我山稲荷神社がある。
宮下橋の上下流域

久我山稲荷神社 宮下人道橋 都橋 久我山橋
宮下橋を左に入ると段上に久我山稲荷神社がある。
久我山稲荷神社の創始は不詳であるが、古来久我山の鎮守で、明治40年(1907)4月に字北原にあった天祖神社を合祀した。
御祭神は保食命で、境内社には天満天神社・八雲神社があり、境内には日本に亡命した金玉均の筆跡を刻んだ石碑・元禄16年(1703)の庚申塔がある
宮下橋の直ぐ下に宮下人道橋がある。
宮下橋が有ればあまり不便でないと思われるが、下流域左に3つの大きなマンションが出来、川の右手に久我山中央緑地があるため人専用の橋を架けたのではないかと思われる。
宮下人道橋の上下流
久我山中央緑地の終わる辺りに都橋がある。
この橋の向かいにも大きなマンションがあり、川を挟んだ反対側にサミットストアがある。
都橋の上下流域
都橋の先で右カーブした先に久我山橋がある。
久我山橋は人見街道と京王線久我山駅の前を通る道の交差点に架かる橋で欄干の形は上下流で異なっている。
久我山橋の上下流域

清水橋 京王帝都管理橋 月見橋 高砂橋
宮下人道橋と同様に久我山橋の直ぐ下に清水橋がある。
清水橋の下流左手には京王電鉄富士見ヶ丘検車区があり、多くの電車が並んでいる。
また清水橋の下流は比較的水量が多く、大型の鯉がたくさん泳いでいる。
清水橋の上下流域
清水橋の次にある橋に橋標は付いていないが、この橋は京王電鉄富士見ヶ丘検車区へ入るための 「京王帝都管理橋」 と川沿いの案内図に記載されている。
京王帝都管理橋の上下流域

月見橋は富士見通りに架かる橋で、左手に京王井の頭線の富士見ヶ丘駅がある。
月見橋の上下流域。
月見橋から下流に見えているのが高砂橋である。
高砂橋の欄干は肌色でちょっと目立っている。現在、橋梁長寿命化修繕工事が行われており、平成28年3月に完成予定である。
高砂橋の上下流域

あかね橋 むつみ橋 錦橋 やなぎ橋
高砂橋の直ぐ下にあかね橋がある。
この辺りの川床には花菖蒲が植えられており、毎年5月頃になると一斉に咲き乱れるという。
あかね橋の上下流域
左手の小公園を過ぎたところにむつみ橋がある。むつみ橋の下流左側には高層アパートが数棟並んでいる。
むつみ橋の上下流域
錦橋は両岸の住民のために設けられた橋のようで、比較的狭い橋巾となっている。
緑と薄紫の欄干がきれいであり、川床は直線ではなく微妙に段々になって漁礁のようになっている。
錦橋の上下流域
川が緩やかに左にカーブしたところにやなぎ橋がある。
やなぎ橋からは正面に杉並清掃工場の煙突が見える。
やなぎ橋の上下流域

あづま橋 佃橋 高井戸橋 正用下橋
環状八号線(環八通り)の手前の京王井の頭線高井戸駅の前にあづま橋がある。
あづま橋の上下流域
環八通りに架かっているのが佃橋である。
ここから下流は両岸に桜の木があり、桜の季節は夜まで賑わいを見せている。
神田川の左手の杉並区高井戸市民センター及び杉並清掃工場は高井戸東遺跡で、清掃工場建築に伴う区道付替えのために発掘調査されたもので、今から2万8千年前の石斧が出土されている。
佃橋の上下流域
桜並木の間にあるのが高井戸橋である。
高井戸の地名は高井本覚院にあった不動堂に由来し、明治44年(1911)に本覚院が甲州街道沿いの宗源寺に合併されて不動堂は宗源寺に移設されている。
高井戸橋の上下流域
左手の杉並清掃工場を過ぎたところに正用下橋がある。
正用下橋の上下流域

池袋橋 乙女橋 堂ノ下橋 塚山橋
正用下橋の直ぐ下に池袋橋がある。
下流域の右には日本郵政株式会社のレクリエーションセンターがあり、続いて乙女橋緑地が両岸にある。
池袋橋の上下流域
緩やかにうねった歩道を下ってくると淡いピンクの乙女橋がある。乙女橋の由来は、徳川御三家の鷹場として将軍家が定めた場所で 「御留め場」 から来ているという。
乙女橋の袂付近に杉並区立乙女橋緑地があり、魚の形・蛙の形の石のオブジェが建っている。橋を左に進むと杉並区立三井の森公園がある。
乙女橋の上下流域
続いて乙女橋から見えていた堂ノ下橋がある。
昔は近くに御堂があったのかと思われる名前である。
ここは上流・下流も真っ直ぐで直線の中央に位置している。
堂ノ下橋の上下流域
塚山橋は右手の塚山公園の下にある石造りの趣ある橋である。
塚山公園には縄文時代の塚山遺跡があり、住居跡が復元整備されている。
塚山橋の上下流域

塚山公園 鎌倉橋 梢橋 藤和橋
塚山公園は武蔵野の面影を残した雑木林の公園で一帯が塚山遺跡となっている。
塚山遺跡は縄文時代中期(約3500~4500年前)の集落跡で、昭和10年秋に江坂輝彌氏によって紹介され、その後、昭和13年に明治大学の後藤守一氏によって、初めて本格的な発掘調査が行われ4軒の竪穴住居跡が発見された。また、昭和48年秋には西東側斜面が調査され住居跡が20件発掘され、環状集落であったことが分かっている。
塚山橋の直ぐ下に鎌倉橋があり、橋の袂に鎌倉街道の石碑が建っている。
鎌倉橋の由来については、石碑の近くに解説が有り、「武蔵名勝図会」 多摩郡之部高井戸宿の条に 「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」 と記されていることから、鎌倉橋と名付けられたという説があると記されている。橋の左手には武蔵野の面影を残す柏の宮公園がある。
鎌倉橋の上下流域
鎌倉橋から左にカーブした先に梢橋がある。
梢橋は親柱がおしゃれで、橋の中央が上下流に丸く突き出た形になっている。川の右手には小さな藤和緑地がある。
梢橋の上下流域
藤和緑地の中間辺りに欄干がおしゃれな藤和橋(とうわばし)がある。橋の欄干には藤の花のレリーフがはめ込まれている。
藤和橋の上下流域

八幡橋 下高井戸八幡神社 睦橋 弥生橋
川の右手の藤和緑地が終わる辺りに八幡橋がある。八幡橋の名前は、橋を右手に入ったところにある下高井戸八幡神社に由来する。
八幡橋の上下流域
八幡橋を右手に進んだところにある下高井戸八幡神社は、長禄元年(1457)太田道灌が江戸城築城の際、家臣の柏木左衛門に命じて鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を勧請して創建されたという。
境内には天祖神社・御嶽神社・稲荷神社・祖霊社の境内社がある。
八幡橋の下流で神田川がくの字に右折する角地に睦橋がある。
睦橋の上流右手の遊歩道上に十二支を刻んだ方位碑があり、また、この辺りは水量が多く、大きな鯉がたくさん群れている。
睦橋の上下流域
睦橋から右折した先に弥生橋がある。
弥生橋は両側の袂が外側に湾曲した造りになっている。
弥生橋の上下流域

向陽橋 幸福橋 神田橋 かんな橋
向陽橋は弥生橋と色合いが良く似ている。
橋の下流右手に水深を計るメモリがあり、上部に白線があるが、そこまで水位が上がると警報が鳴り出すという。
向陽橋の上下流域
向陽橋の直ぐ下に弥生橋とよく似た造りの幸福橋がある。
幸福橋の下流は水深がやや深くなっているためか、ゆったりと流れており、鯉が群れ鴨が泳いでいる。
幸福橋の上下流域
幸福橋の下流右手の下高井戸運動場を過ぎたところに2つ目の神田橋がある。
神田橋は、車道と歩道に分離されている。
下流の遊歩道には、子供の遊び歌の描かれた椅子の他、路面に可愛い絵が描かれたプレートが埋め込まれている。
神田橋の上下流域
神田川が左にカーブするところにかんな橋がある。橋の袂には杉並区永福南公園があり、下流の遊歩道には上流から続く可愛い絵の描かれたプレートが埋め込まれている。
かんな橋の上下流域

永福橋 永福稲荷神社 永福寺 ひまわり橋
かんな橋の下流左手の永福中央公園入口を過ぎたところに永福橋がある。
永福橋の上流右岸には永福中央公園口があり、下流右岸の壁には 「神田川の思い出」 の文字を使った絵カルタが貼られている。
永福橋の上下流域
永福橋を左に進むと坂道の右手段上に永福稲荷神社がある。
永福稲荷神社は永禄3年(1530)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神を勧請して創建したといわれている。境内末社として天王社・白山神社、白鳥神社・北野神社があり、境外末社に御嶽神社がある。
永福稲荷神社の裏手に曹洞宗の万歳山永福寺がある。
永福寺は大永2年(1522)秀天慶実和尚による開山と伝えられており、村名もこの寺名による。
境内には 「子授け地蔵」 の名で村人に信仰された正徳5年(1715)の地蔵菩薩石像等があり、また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)の庚申塔、元禄4年(1691)の地蔵石像が安置されている。
永福橋の直ぐ下にひまわり橋がある。
下流域の右岸には東京都立大塚ろう学校の建物がある。
ひまわり橋の上下流域

永高橋 明風橋 京王井の頭線鉄橋 蔵下橋
ひまわり橋の下流で神田川が左に屈曲するところに永高橋がある。
橋の右手には聴覚に障害がある幼児・児童のための、幼稚部・小学部が設置された東京都立大塚ろう学校がある。ここには平成16年まで永福高校があり、橋の名前は永福高校からきているという。
永高橋の上下流域
神田川が永高橋で左に曲がり、その下流で右に曲がるところに明風橋(みょうふうばし)がある。
明風橋の上下流域
明風橋の下流に京王井の頭線の鉄橋がある。
京王井の頭線の鉄橋の直ぐ下に蔵下橋がある。
蔵下橋の上下流域

神泉橋 栄泉橋 宮前橋 龍光寺
蔵下橋から急坂の遊歩道を上ったところに井の頭通を結ぶ神泉橋がある。
神泉橋の上下流域
地図上では神泉橋の直ぐ下に小さな橋があるのだが、現在工事中で確認できなかった。
工事橋の下に木製の欄干の栄泉橋があり、下流域の左岸に真言宗室生寺派の龍光寺があり、右岸に杉並区立和泉小学校がある。
栄泉橋の上下流域
栄泉橋から緩やかに右にカーブしたところに宮前橋がある。
橋を左に行くと左手段上に龍光寺があり、右手段上に宮前橋の名前の由来となった熊野神社がある。
宮前橋の上下流域
宮前橋を左に進むと左段上に真言宗室生寺派の泉涌山龍光寺がある
龍光寺は承安2年(1172)龍観和尚による開創と云われ、山号の泉涌は和泉の地名の由来ともなった貴船神社の泉に由来し、寺号の龍光は直ぐ下を流れる神田川の源の井之頭池に棲んでいた巨大な龍が、川を下って来て、この付近で雷鳴を轟かせ光を放って昇天したことに由来すると伝わっている。

和泉熊野神社 中井橋 貴船神社 番屋橋
龍光寺の道路を挟んだ向かいに和泉熊野神社がある。
和泉熊野神社は、文永4年(1267)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが創建と伝えられ、江戸期には別当龍光寺で和泉村の鎮守であった。境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木がそびえている。
右岸の日大鶴ケ丘高校のグランドが終わる辺りに中井橋がある。
中井橋の右手には和泉二丁目公園があり、中井橋を左に入って突当りを右に進むと貴船神社がある。
中井橋の上下流域
中井橋を左に進み、突当りを右折すると貴船神社がある。
貴船神社は、和泉熊野神社の境外末社で文永年間(1264-75)に創建されたと伝えられており、境内にある 「御手洗の小池」 はいかなる干ばつでも涸れることがなかった湧水で、和泉の地名の由来になったと云われている。
和泉二丁目公園の下に欄干の塗装が剥げた番屋橋がある。
番屋橋の上下流域

一本橋 和泉橋 弁天橋 方南第一橋
神田川が大きく右にカーブして行く辺りに一本橋がある。
一本橋の右手には一本橋公園がある。
一本橋の上下流域
神田川が右に大きくカーブしていく途中に和泉橋がある。
和泉の地名の由来は、上流にあった貴船神社の 「御手洗の小池」 である。下流左岸にはべんてん橋公園がある。
和泉橋の上下流域
べんてん橋公園の直ぐ下に弁天橋がある。
弁天橋の先で神田川はクランク状に屈曲している。下流の左岸には弁天橋東緑地があり、中央に腕組みしたカエルの像がある。
弁天橋の上下流域
弁天橋の下流をクランク状に曲がった先に方南第一橋がある。
橋の下流左岸に泉南緑地があり、続いて方南橋の手前に東京都建設局の神田川取水施設がある。
方南第一橋の上下流域

方南橋 上水橋 東運寺 たつみ橋
東京都建設局の神田川取水施設の先に環状7号線(環7)に架かる方南橋がある。
環7通りの地下40mに延長4.5㎞・内径12.5mのトンネルがあり、神田川流域の洪水を貯留する仕組みになっている。
方南橋の上下流域
方南橋の直ぐ下に上水橋がある。
上水橋の左手には、「釜寺」 の通称で親しまれている念仏山東運寺があり、上水橋の右手には上水橋緑地が住宅の裏を取り囲むように造られている。上水橋から下流は両岸共に車が通れる。
上水橋の上下流域
上水橋を左に入ると浄土宗の念仏山東運寺がある。
山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)であったといわれ、山門向かいの 「身代わり地蔵尊」 は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それに因んで本堂の屋根に釜を置いたと云われている。
上水橋の次にたつみ橋がある。橋の右手は方南小学校で、神田川は下流で直角に近い角地で左に折れている。
左に折れて直ぐ中野区と杉並区の区堺があり 「スタート地点」 の標識がある。
たつみ橋の上下流域

向田橋 神田橋 角田橋 多田神社
中野区に入って左カーブを曲がり切ったところに向田橋がある。
川底が狭くなったせいか水量も減ったように感じる。向田橋の下流は善福寺川に合流する直前まで真っ直ぐである。
向田橋の上下流域
上流から3つ目の神田橋で、神田上水橋を入れると 「神田」 が付く4つ目の橋である。
神田橋の上下流域
神田橋の下流には一見して向田橋と区別が付かない角田橋がある。
角田橋の右手には多田神社があり、その裏手に多田神社の別当寺であった宝福寺がある。角田橋の上下流域
角田橋を右に入って行くと左手に多田神社がある。
多田神社は、寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、此の地に先祖多田満仲(第56代清和天皇の御曾孫多田源氏の祖神)を奉祀したことに始まると伝えられている。境内には、榛名神社・御嶽神社・阿夫利神社、多田稲荷神社の境内社がある。

宝福寺 睦橋 栄橋 和田見橋
多田神社の裏手に多田神社の別当寺であった真言宗豊山派の如意山宝福寺がある。
宝福寺の創建年代は不詳である、江戸33観音霊場ガイドによると、聖徳太子が諸国を巡遊された時、紫雲たなびくこの地を霊地として堂を建立し、如意輪観音像を奉安したのが始まりと云われている。
境内には戸村直衛という人が書いたという筆塚碑・馬頭観音・庚申塔などがある。
角田橋の下に東京都立中野特別支援学校の校庭に向かう睦橋がある。
この橋は中野特別支援学校専用の橋である。
睦橋の上下流域
睦橋の直ぐ下に方南通りを結ぶ栄橋がある。
栄橋の下流は右岸が東京メトロ丸ノ内線の操車場になっており、歩道は左岸にしかない。
この下流で善福寺川と合流する。
栄橋の上下流域
善福寺川と合流して右折した先に和田見橋がある。
この橋の名の由来は、杉並区和田と中野区富士見に架かっていることから和田見橋という。
和田見橋の上下流の川壁の上に鉄板をくり抜いた昆虫・鳥・魚などのオブジェが乗っている。
和田見橋の上下流域

富士見橋 高砂橋 寿橋 本郷橋
丸ノ内線中野富士見町駅の脇に富士見橋がある。
富士見橋の下流は、6つ先の氷川橋まで両岸共に遊歩道が無いので住宅街の道を進むことになる。
富士見橋の上下流域
富士見橋の下流は左手から住宅地を進んで高砂橋のあるところで川沿いに出て撮影した。
高砂橋の上下流域
高砂橋の下流の駐車場から辛うじて寿橋が見える。
寿橋は都道420号線(中野通り)を結ぶ橋であり、橋巾はかなり広い。橋の右手は京王バス中野車庫が橋の上下流に渡って延びている。
寿橋の上下流域
中野区立第二中学校の校庭角を右に入ったところに本郷橋がある。
本郷はこの辺りの旧地名から来ている。
本郷橋の上下流域

柳橋 千代田橋 氷川橋 中野新橋
住宅地左手の中野区立第二中学校を過ぎた十字路右手に柳橋がある。
柳橋の下流は、最近整備された様子で川壁・川底が綺麗になっている。
柳橋の上下流域
柳橋の下流直線上に見えているのが千代田橋である。千代田橋は上流から撮れないので下流から撮影した。
かつて、この辺りは水田が多く、千代田の名前は長い年月に渡って栄える 「千代の田」 に由来する。
千代田橋の上下流域
千代田橋の直ぐ下に氷川橋がある。
氷川橋の名前は、神田川の北側に本郷氷川神社があることに由来する。
氷川橋から下流は遊歩道が復活している。
氷川橋の上下流域
氷川橋の下流に赤い欄干の中野新橋がある。
橋の下流には新宿西口の高層ビル群が見える。
橋を左に進むと左手住宅地内に本郷氷川神社がある。
中野新橋の上下流域

本郷氷川神社 桜橋 花見橋 月見橋
中野新橋を左に進んで住宅地を左に入ると本郷氷川神社がある。
本郷氷川神社は、文明元年(1469)太田道灌が江戸城を工築するにあたり、城砦鎮護のため埼玉県大宮氷川神社より御分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。
境内には稲荷神社2社・御嶽神社の境内社がある。
中野新橋の下流に林立するビルの先に欄干が桜色の桜橋がある。
桜橋の上下流域
花見橋とは言うものの近くに桜の木は見当たらない。
花見橋の下流は100m以内に次の橋が架かるほど近接して8本の橋が続いている。
花見橋の上下流域
月見橋は上流の富士見通りに架かる橋と同名であり、2つ目の月見橋である。
月見橋の上下流域

中ノ橋 皐月橋 桔梗橋 東郷橋
月見橋の下には親柱は違うが、欄干が青色でちょっと見は区別の付かない中ノ橋がある。
下流左岸には八津御嶽神社があり、右岸にはポケットパークがある。
中ノ橋上下流域
中ノ橋の直ぐ下に緑色の欄干で、親柱がレンガ造りの皐月橋がある。
皐月橋の下流右岸の向台小学校裏の遊歩道上には神田川の1000分の1スケールの流域ポイントを示すタイルが埋め込まれている。
皐月橋の上下流域
神田川が緩やかに左にカーブする手前に赤茶色の欄干の桔梗橋がある。
桔梗橋の上下流域
神田川が左にカーブするところに東郷橋がある。橋の袂付近に里程標があり、みなもとから12.1㎞とある。
東郷橋の上下流域

長者橋 成願寺 宝橋 菖蒲橋
環状6号線(山手通り)を結んでいるのが長者橋である。
長者橋の名前は、長者橋を左に進んだところにある成願寺を開創した中野長者・鈴木九郎に由来する。
長者橋の上下流域
長者橋を左に進むと環状6号線(山手通り)に面して鐘楼門が目立つ曹洞宗の多宝山成願寺がある。
成願寺は、永享10年(1438)中野長者の鈴木九郎が出家して、西新宿の十二社の敷地内に創建し、その後、江戸時代初期に長者屋敷跡へ移転した。境内には圓通閣(百観音堂)・龍鳳閣(開山堂)・長者閣・蓮池藩鍋島家の墓所などがある。
長者橋の直ぐ下に宝橋がある。
宝橋もカーブに有る橋で、かなり斜めに設置された橋である。
宝橋の上下流域
菖蒲橋(あやめはし)の下流両岸には小さな緑地があり、ここから新宿区に属する神田川に架かる33の橋の地図の案内板がある。
菖蒲橋の上下流域

相生橋 豊水橋 淀橋 中本一稲荷神社
菖蒲橋の下に宝橋同様にかなり斜めに架けられた相生橋がある。
相生橋の上下流域
相生橋の直ぐ下に豊水橋(とよみずはし)がある。
豊水橋の下流右岸には高層ビル群が聳えている。
豊水橋の上下流域
青梅街道を結ぶのが淀橋である。
淀橋は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名付けたと言われている。
淀橋を左へ進むと右手段上に中本一稲荷神社がある。
淀橋の上下流域
淀橋を左に進むと右手段上に中本一稲荷神社がある。
中本一は、この辺りの旧称・中野本町通り一丁目から呼ばれた名前と言う。鳥居や社殿は中本稲荷神社となっているが、幟は中本一稲荷大明神となっている。

栄橋 伏見橋 末広橋 柏橋
淀橋の直ぐ下に栄橋がある。
栄橋上下流域は、川壁川底がきれいに整備され、かなりの増水にも耐えられるようになっている。
栄橋橋の上下流域
神田川が左カーブするところに伏見橋がある。
伏見橋の名前の由来は、明治時代の後半橋の左手に戦後廃止された皇族 「伏見宮家」 の広大な別邸(高歩院)が存在したことに因んで名付けられたという。
伏見橋の上下流域
末広橋は大久保通りを結ぶ橋である。
橋の左袂に桃園川緑道があり、ここに南こうせつのフォークソング 「神田川歌碑」 がある。
桃園川は現在暗渠となって、この末広橋の下で神田川に注いでいる。
末広橋の上下流域
末広橋の直ぐ下に柏橋がある。
橋の近くには、神田川遊歩道の案内図があり、橋間距離も掲載されている。
柏橋の左手を入って行くと突当りに第六天神社がある。
柏橋の上下流域

第六天神社 新開橋 圓照寺 万亀橋
柏橋を左に進んだ突当りに第六天神社がある。元々は中野区内では有数の旧家である秋元家の奉納した屋敷神である。
鳥居前には第六天神社社標があり、その脇に道標が建っているが、判読できない文字もある。
柏橋の下流でやや右にカーブするところに新開橋がある。
新開橋を右に進んで行くと左手に圓照寺がある。
新開橋の上下流域
新開橋を右に進んで行くと真言宗豊山派の医光山円照寺がある。
円照寺の創建年代は不詳であるが、理源大師の弟子の貞崇僧都が安置した薬師堂を起源とし、天慶3年(940)藤原秀郷が平将門征伐の際に一寺となしたと伝えられ、地頭柏木右衛門佐頼秀の居館跡と云われている。
境内には柏木右衛門桜(三代目)・薬師堂・閻魔堂などがある。
新開橋の下流にあり、JR中央本線の直ぐ上にあるのが万亀橋である。
この橋からは頻繁に行き来する黄色や赤の電車が良く見える。
橋の袂には、歴史と文化の散歩道と題した新宿今昔散歩の案内地図が設置されている。
万亀橋の上下流域

大東橋 南小滝橋 亀齢橋 小滝橋
JR中央本線の架橋下にあるのが大東橋(だいとうばし)である。
大東橋の左には高層タワーマンションが建ち、橋の右岸から下流は新宿区立神田上水公園が続いている。橋の上流左岸のJR中央本線の手前には柏木不動尊がある。
大東橋の上下流域
大東橋の下流左岸にある中野区立第三中学校を過ぎたところに南小滝橋がある。
南小滝橋の上下流域は桜並木が両岸にあり、川面にせり出している。
下流右岸は大東橋から始まる新宿区立神田上水公園が続いている。
南小滝橋の上下流域
南小滝橋と小滝橋の中間にあるのが亀齢橋(きれいばし)である。
桜の咲くころは、右岸の新宿区立神田上水公園は超満員の状態である。
亀齢橋の上下流域
亀齢橋からS字にうねった先に小滝橋がある。
小滝橋は都道25号線(早稲田通り)を結ぶ橋である。
小滝橋は、江戸時代には上戸塚村(現新宿区)と中野村(現中野区)の間に架けられていた板橋であった。小滝橋という名は、かつてこの橋の下に小さな堰があり、そこに水が流れて小さな滝となっていたことに由来するという。
小滝橋の上下流域

久保前橋 せせらぎ橋 新堀橋 瀧澤橋
小滝橋から左にカーブした先に久保前橋がある。
久保前橋の左手には落合水再生センターがあり、施設を跨ぐ歩道橋の先に中央公園がある。
朝日橋のすぐ下に駒が坂橋がある。
久保前橋の上下流域
落合水再生センターの施設が終わる辺りで神田川が右にカーブしていくところにせせらぎ橋がある。
橋の左手には、落合水再生センターで下水を処理した清らかな水が流れる 「せせらぎの里」と名付けられた公園がある。
せせらぎ橋の上下流域
せせらぎ橋の下流に見えた高田馬場分水路のあるところに新堀橋(しんぼりはし)がある。
高田馬場分水路は、一定水位を超えた分だけ流れ込むようになっており、流れ込んだ水は西武新宿線を越えた先で妙正寺川に合流して、新目白通りの地下貯水池を流れ、下流で神田川に合流している。
新堀橋の上下流域
新堀橋の下流50m程のところに瀧澤橋がある。新堀橋からは、遊歩道が右岸しかない。
瀧澤橋から下流の落合橋へは、遊歩道が無いため、右岸または左岸の迂回路で回り込んで行く。
瀧澤橋の上下流域

落合橋 宮田橋 田島橋 清水川橋
瀧澤橋から民家の間を迂回して行くと120m程下流に落合橋がある。
落合橋の上下流域
落合橋の100m程下流に宮田橋がある。
宮田橋は、橋の欄干も親柱も落合橋とよく似ている。
宮田橋の下流は遊歩道は無いが、右岸は公園内を通って東京富士大学の校舎を回り込んで下流の田島橋に出ることが出来る。
宮田橋の上下流域
宮田橋の右岸を公園から東京富士大学を回り込むと田島橋がある。
江戸時代、鼠山(現豊島区)に下屋敷があった安藤但馬守がよくこの橋を通ったため、「但馬」を 「田島」 としてこの橋の名が付いたという。
田島橋の上下流域
田島橋から高田馬場駅方面への商店街を進んだ左手に清水川橋がある。
清水川橋の上下流域

神高橋 高塚橋 戸田平橋 源水橋
JR山手線と西武新宿線のガードの下流に神高橋がある。
上流のJR山手線のガード下は河幅が極端に狭くなっている。
神高橋の上下流域
神高橋の下流にいつも長い行列の出来ている高塚橋がある。
高塚橋は、豊島区側の 「高田」 と新宿区側の「戸塚」 という地名に由来するようである。
橋にできた行列の先は、レッドロックというローストビーフ丼のお店のようである。
高塚橋の上下流域
高塚橋の下流で左カーブするところに戸田平橋がある。
戸田平橋の名前の由来は、「戸塚」 と 「高田」を結ぶ橋であり、架橋に尽力した地元の淀橋区議会議員の 「平野与三吉氏」 の苗字から1文字ずつ取られたものだという。
戸田平橋の上下流域
戸田平橋の下流の親水施設の辺りに源水橋がある。
源水橋の名前の由来は、この辺りの源兵衛村に水車があったので、頭の一字を取って付けられたといわれる。
橋の親柱には水車が描かれ、欄干には桜の花が描かれている。
源水橋の上下流域

高田橋 高戸橋 曙橋 面影橋
源水橋の直ぐ下に新目白通りを結ぶ高田橋がある。
高田橋の下方左からは、高田馬場分水路(妙正寺川)が合流して来る。
高田橋の上下流域
高田橋の直ぐ下に明治通り(環状5号線)を結ぶ高戸橋がある。高戸橋の名前は、「高田」 と 「戸田」 という地名に由来している。
高戸橋の下流には、都電荒川線が並行して走っており、川底は、かつて1m程あった段差を解消した魚道が設けられている
高戸橋の上下流域
高戸橋の下流は両岸共に直ぐに遊歩道に出られないため、一旦回り込んで遊歩道に出る。
右岸は桜の木の間から何とか曙橋が見える。
曙橋の上下流域
曙橋の下流で神田川が左にカーブするところに面影橋がある。
面影橋の名前の由来は、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこの辺りで見つけた将軍家光が名付けたという説など諸説あるようである。橋を左に入って行くと氷川神社と南蔵院がある。
面影橋の上下流域

氷川神社 南蔵院 三島橋 水稲稲荷神社
面影橋を左(北側)に入ると左手に高田総鎮守氷川神社がある。
高田総鎮守氷川神社の創建は今から約1130年以上の昔、第56代清和天皇の御代である平安時代の貞観年間(859~77)にこの地に鎮座されたと伝えられている。
古今和歌集の六歌仙の一人である在原業平公も参拝されたと云われている。境内には高田姫稲荷神社・神明神社・道祖神社がある。
氷川神社の向かいに真言宗豊山派の大鏡山薬師寺南蔵院がある。
寺伝では、開山は室町時代の円成比丘(永和2年1376年寂)とされ、本尊の薬師如来は木造の立像で奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国修行に携えていたところ、当地で動かなくなったことから、当地に安置して一寺を創建したという。境内には、元禄9年(1696)の手水鉢や庚申塔・六地蔵尊などの石造物がある。
面影橋からは新目白通り脇に遊歩道があり、三島橋で川沿いの遊歩道となる。
桜並木の間から見る三島橋は、曙橋・面影橋と区別が付かない。
三島橋の南側の新目白通りを渡った先の高台に水稲稲荷神社がある。
三島橋上下流域
三島橋の南側にある甘泉園公園の奥に水稲稲荷神社がある。
水稲荷神社は早稲田の氏神であり、大隈重信はじめ早稲田大学の崇敬が深く、
内には大隈重信ゆかりの高木神社、北野天神社がある。

仲之橋 豊橋 駒塚橋 新江戸川公園
三島橋の直ぐ下に仲之橋がある。
仲之橋の下流は橋梁工事が行われており、川底に土嚢が積まれていた。
仲之橋の上下流域
仲之橋の下流に 「いきいきウォーク新宿」 の最後33番目の橋である豊橋(ゆたかはし)がある。
豊橋の上下流域
S字にくねった先に文京区に入って最初の橋である駒塚橋がある。
駒塚橋の左手(北側)には新江戸川公園・水神神社・関口芭蕉庵があり、下流の小滝橋までの間の左岸には椿山荘がある。
駒塚橋の上下流域
駒塚橋を左に進むと文京区立新江戸川公園がある。
新江戸川公園は、細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園である。入口を入って左手にある建物は松聲閣(しょうせいかく)と呼ばれ、もと細川家の学問所だった建物で大正時代の建造物である。

水神神社 関口芭蕉庵 椿山荘 大滝橋
駒塚橋の左(北)渡り詰め正面に水神神社がある。
水神神社の創建年代等は不詳であるが、神田上水が開かれて以来、関口水門の守護神として祀られてきたと云われている。
水神神社の右手の胸突坂を挟んで関口芭蕉庵がある。
ここは松尾芭蕉(1644~94)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだところである。敷地内には庭園・池・芭蕉句碑などがある。
神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため 「つばきやま」 と呼ばれており、明治に入って軍人・政治家であった山縣有朋が私財を投じて明治11年(1878)に購入し、自分の屋敷として 「椿山荘」 と命名した。
山縣有朋は椿山荘において趣味である作庭を行っており、庭園内には数々の史跡が点在している。
椿山荘を過ぎて神田上水取水口 「大洗堰」 のあった場所に大滝橋がある。
大滝橋下流左岸は、江戸川公園が江戸川橋まで続いており、大洗堰の遺構が保存されているいる。
大滝橋の上下流域

一休橋 江戸川橋 大泉寺 華水橋
江戸川公園の中間辺りに一休橋がある。
一休橋の由来は、左岸の川沿いに一橋家の抱屋敷があったことから、俗称 「いっきょう橋」が転じて 「いっきゅう橋」 となったという。
江戸川公園には、東屋などが整備されており、人々の安らぎの場となっている。また松尾芭蕉ゆかりの地でもあり、松尾芭蕉が詠んだ樹木名が整理された樹名板がある。
一休橋の上下流域
一休橋の下流に目白通りを結ぶ江戸川橋がある。
江戸川とは、現在の神田川の一部で大滝橋(関口大洗堰)から船河原橋(飯田橋付近)までの2㎞程の区間をかつて 「江戸川」 と呼んでいたことの名残りである。
江戸川橋の左(北側)には江戸川公園碑・大井玄洞翁像があり、その直ぐ北側に大泉寺がある。
江戸川橋の上下流域
江戸川橋の北側に浄土宗鎮西派の寶國山寳珠院大泉寺がある。
大泉寺は、一蓮社念誉上人能悦和尚が慶長5年(1600)に開山・創建したという。
境内には、十二支堂・貞享2年(1685)の庚申塔・寛文6年(1666)の阿弥陀如来・延宝2年(1674)の半跏地蔵菩薩などの石造物がある
江戸川橋の100m程下流に華水橋がある。
華水橋の左(北側)には、還国寺・大日堂などの寺社があり、その山門前から小石川後楽園に向かって蛇行した道があるが、この道がかつての神田上水の跡である。
華水橋の上下流域

還国寺 大日堂 掃部橋 古川橋
華水橋の左(北側)の大日坂下交差点を左折したところに浄土宗の安養山還国寺がある。
還国寺は、西蓮社在譽上人龍藝和尚が、寛永8年(1631)に牛込津久土邊に庵室を結んだのが始まりと云われる。
境内には、櫻木町方除閻魔を安置した閻魔堂がある。
大日坂下交差点の段上に大日坂の名前の由来となった大日堂がある。
堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)と言われている。
狭い境内には地蔵菩薩・勢至菩薩などの石造物がある。
華水橋の下流150m程のところでやや左カーブするところに掃部橋(かもんばし)がある。
掃部橋の上下流域
掃部橋の30m程下流に古川橋がある。
古川橋の北側の文京総合福祉センター前に神田上水旧白堀跡解説が有り、その裏手の服部坂の上に小日向神社がある。
古川橋の上下流域

小日向神社 石切橋 西江戸川橋 日輪寺
掃部橋の北側の服部坂の上に小日向神社がある。江戸時代、小日向神社があった場所には、服部権太夫の屋敷があったため、服部坂と名付けられた。
日向神社は、この付近にあった氷川神社と八幡神社とが合祀して明治2年(1869)に小日向神社となったという。
古川橋に続いて石切橋がある。
石切橋の親柱は3m程の角柱である。
石切橋の上下流域
西江戸川橋は、下流の小桜橋と同様にピンクで見た目は区別が付かない。
橋の袂の解説によると、この橋は西江戸川町(現文京区水道二丁目)と牛込五軒町(現新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったという。
西江戸川橋の北側の元神田上水の通りには、日輪寺・本法寺・称名寺が並んでいる。
西江戸川橋の上下流域
西江戸川橋の北側にある元神田上水の通りに曹洞宗の慈照山日輪寺がある。
日輪寺は、吉祥寺第八世松栖用鶴大和尚(寛永7年寂)が、小日向神社の別当寺として慶長13年(1608)に創建したといわれ、ご本尊は釈迦牟尼佛像である。
境内には、甘酒婆地蔵尊・不動明王・如意輪観音などの石造物がある。

本法寺 称名寺 小桜橋 中之橋
日輪時の右隣に真宗大谷派の高源山随自院本法寺がある。
本法寺は、蓮如上人が開基となり江州志賀郡堅田新在家に文明3年(1471)に創建し、その後幾多の変遷を経て、宝永2年(1705)この地に移転したという。
本法寺は夏目漱石(金之助)の菩提寺であり、境内には早稲田大学第一四代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。
本法寺の右隣に浄土真宗本願寺派の廣國山一心院称名寺がある。
称名寺の創建年代等は不詳であるが、寛永元年(1624)に牛込から移転したという。
西江戸川橋の直ぐ下にピンク色の小桜橋がある。
石切橋・西江戸川橋とよく似た親柱が建っている。
小桜橋の上下流域
トッパン小石川ビルの前に有るのが中之橋である。トッパン小石川ビル前には、皇太子殿下・皇太子妃殿下行啓記念碑、皇后陛下行啓記念碑がある。
中之橋は、江戸時代初期に刊行された 「寛文江戸図」 の中に無名ではあるが確認することが出来、当時は現在のようにたくさんの橋は無く、この橋が下流側の隆慶橋と石切橋の間にあることから、「中之橋」 と名付けられたという。
中之橋の上下流域

新白鳥橋 白鳥橋 新隆慶橋 諏訪神社
中之橋の直ぐ下に都道8号線を結ぶ新白鳥橋がある。
橋の上流側に歩道が設けられている。
橋の左側(北側)のフォリアージュビルの前には、同人社跡の解説が有る。
新白鳥橋の上下流域
神田川が直角に近い角度で右折する所に白鳥橋がある。この付近は、江戸時代には大曲と呼ばれていた。明治19年(1886)には 「大曲橋」 が架けられていたが、その後、架け替えられ、この辺りに大きな白鳥池があったことから「白鳥橋」 となった。
橋の左袂(北側)に水道橋分水路吞口があり、下流の小石川橋に吐口がある。
白鳥橋の上下流域
白鳥橋の下流に片側3車線の広い新隆慶橋がある。
橋の左(東側)を進むと住宅街に諏訪神社がある。
新隆慶橋の上下流域
新隆慶橋を左(東側)に進んだ住宅地に諏訪神社がある。この辺りは古くからこの諏訪明神があったため昭和39年まで諏訪町と呼ばれていた。御祭神は、健御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)であり、境内社に思の森稲荷神社がある。

隆慶橋 船河原橋 小石川橋 小石川後楽園
首都高速5号線の都道8号線下り口の手前に隆慶橋がある。
一見仮橋のように見える橋で、車道と歩道の区別は赤いポールだけである。
隆慶橋の上下流域
都道405号線(外堀通り)を結ぶのが船河原橋である。
橋の左(東側)に水道橋2号分水路呑口があり、下流の小石川橋上流に吐口がある。
神田川は船河原橋で左に直角に曲がっており、目白通りに架かる橋も船河原橋となっている。
船河原橋の上下流域
船河原橋の下流で首都高速5号線が右にカーブするところに小石川橋がある。
ここは江戸時代に小石川門があった所で、明治5年(1872)に城門を撤去して、木橋を新しく架け直している。小石川橋の下流で右手に日本橋川が分流している。
小石川橋の左(北側)には水戸光圀ゆかりの小石川後楽園がある。
小石川橋の上下流域
小石川橋の北側に小石川後楽園がある。
江戸初期からの徳川家上屋敷の回遊式泉水庭園で寛永6年(1629)、初代藩主・水戸頼房が江戸の上屋敷の庭として造った庭園を、水戸光圀が改修して完成した庭園である。後楽園という名も水戸光圀が名付けたという。
この時期は園内の梅の花が見事である

後楽橋 水道橋 三崎稲荷神社 東京都水道歴史館
JR水道橋駅前に後楽橋がある。
橋の名前は、小石川後楽園に由来し、後楽橋の隣には、後楽園ドームへ通じている後楽園ブリッジがある。
下流には、神田川市兵衛河岸防災船着場がある。市兵衛河岸は、この辺りに有った岩瀬市兵衛の屋敷があったことに由来し、船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯を指す。
後楽園橋の上下流域
後楽橋の下流に都道301号線を結ぶ水道橋がある。水道橋の名前は、この橋から約150m程下流に神田上水の懸樋があったことによる。
懸樋があった辺りの左岸には、神田上水懸樋跡碑、右岸のサイカチ坂には神田上水懸樋解説が建っている。
水道橋の右(南側)のJR水道橋駅前には、鎌倉時代から鎮座する三崎稲荷神社があり、下流北側には東京都水道歴史館がある。
水道橋の上下流域
JR水道橋駅の前に三崎稲荷神社がある。
鎌倉時代初期の建久年間(1190-99)よりも前とも伝わっており、江戸時代にも三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させ、心身を清めたことから、「清めの稲荷」 とも称された。
三崎という地名は、江戸時代前からあった三崎村に由来し、三崎村は日比谷入江に突きだした 「岬」 だったため、この名が付いたという。
水道橋左岸のお茶の水坂を上がった北側に東京都水道歴史館がある。
ここには神田上水に関する資料が展示されており、隣の本郷給水所公苑には石樋の遺構が移築復元されている。

お茶の水橋 聖橋 昌平橋 万世橋
お茶の水坂を上った先にお茶の水橋がある。
橋の右手(南側)渡り詰めに 「お茶の水」 という地名の由来碑がある。
お茶の水の上下流域
お茶の水橋の直ぐ下に都道403号線(本郷通り)を結ぶ大きいな聖橋がある。
聖橋の名前は、左岸に湯島聖堂、右岸にニコライ堂があることに由来する。
この橋は関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927)に完成した
聖橋の上下流域
聖橋の下流の東京メトロ丸ノ内線ガード・JR総武線ガードに次いで昌平橋がある。
昌平橋の架橋は古く、寛永年間(1624-44)と伝えられ、一口橋、芋洗橋、相生橋などと呼ばれたこともある。元禄4年(1691)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設した時、相生橋と呼ばれていたが、孔子誕生地の昌平郷に因んで昌平橋と改名した。
昌平橋の上下流域
昌平橋の下流に国道17号線(中央通り)を結ぶ万世橋がある。
万世橋の歴史は古く、延宝4年(1676))に架けられた筋違橋に遡る。当時、筋違橋は徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあり、その橋の直ぐ南に筋違見附があり、万世橋はそこに付属する橋であった。
万世橋の上下流域

神田ふれあい橋 柳森神社 和泉橋 美倉橋
JR山手線・上越北陸新幹線のガード脇に神田ふれあい橋がある。
下流右岸には柳森神社がある。
神田ふれあい橋の上下流域
柳森神社は長禄2年(1457)、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する。柳森神社は、椙森神社・烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれた。
御祭神は倉稲魂大神で、境内社に金比羅宮、秋葉大神、明徳稲荷、福寿神がある。
首都高速1号線の下に国道4号線(昭和通り)を結ぶ和泉橋がある。
和泉橋の北に藤堂和泉守高虎の屋敷地があり、橋の名前はこれに由来すると云われている。和泉橋南詰東側には 「既製服問屋発祥の地」の説明板が建っている。
和泉橋の上下流域
和泉橋の下流に太い導水管が並行する美倉橋がある。
美倉橋は清州橋通りを結ぶ橋である。
美倉橋の上下流域

左衛門橋 浅草橋 柳橋
美倉橋同様に導水管が並行する左衛門橋がある。
左衛門橋は、左衛門通りを結ぶ橋であり、左衛門という名は、北側に庄内藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことに由来すると云われる。下流には屋形船が係留されている。
左衛門橋の上下流域
左衛門橋の下流に国道6号線(江戸通り)を結ぶ浅草橋がある。
浅草橋の名前は、江戸時代に浅草御門が築かれ、その門前にあった橋で 「浅草御門橋」 と呼ばれたが、いつしか 「浅草橋」 になったという。浅草御門には警護の人を配置したことから浅草見附と言われた。
浅草橋の上下流域
隅田川合流手前に神田川に架かる140橋の最後の柳橋がある。
柳橋は、神田川が大川に流れ込むところにあったことから、当時は 「川口出口之橋」 と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか 「柳橋」 と呼ばれるようになったという。
柳橋の上下流域