浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋が架けられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか 「浅草橋」 になった。

南詰の郡代屋敷跡

北詰めにある浅草見附跡碑

江戸時代に主として関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。
関東郡代は、天正18年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永19年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688-1704)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
寛政4年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化3年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。

旧浅草橋町名由来

浅草橋下流域

浅草橋上流域

下流に最後の柳橋が見えている

両岸にたくさんの屋形船が係留されている

浅草橋(あさくさはし)橋標