五月雨に かくれぬものや 瀬田の橋
芭蕉の短冊を埋めて墓とした
胸突坂
瓢箪池
瓢箪池
芭蕉翁之墓
胸突坂解説
遊歩道に面した関口芭蕉庵正門
関口芭蕉庵解説
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改善工事に参画し、「龍隠庵」 と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は
「関口芭蕉庵」 と呼んだ。
享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆 「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」
の短冊を埋めて墓とした。この墓を 「さみだれ塚」 と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
芭蕉庵の建物は、昭和13年(1938)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。
敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱音管江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
真中に 富士聳えたり 國の春
ふる池や 蛙飛こむ 水のをと
芭蕉句碑
胸突坂標柱
伊藤松宇句碑