北国街道 (上田~戸倉)
平成28年8月12日(金) ☀ 上田~戸倉 17.0㎞ |
本日は、上田城下から千曲川の東を国道18号線に沿って進む、昨日と同様の道である。上田宿の次は、坂木宿、そして元々は一宿の上戸倉宿、下戸倉宿と続いていく。今朝はどんよりとした雲に覆われているが、天気予報では本日もかなりの暑さになる見込みである。 |
原町市神社 | 妙光寺 | 問屋跡 | 真田太平記館 | |||
中央2丁目交差点の直ぐ先に原町市神社がある。 原町は、原之郷(真田の本原)から商人などを移して慶長の中頃に出来た町である。原町にも市神が祀られ、5と10の付く日に市が開かれた。原町の祇園祭のシンボルお山の天王は、真田氏の居館い近い天白山に形を模したものと言われ、大正時代まで続いたという。 |
原町市神社の向かい側の街道右手に日蓮宗の修禅山妙光寺がある。 妙光寺は、修禅院日進上人蟄居の霊跡寺院で、日本三大弁財天の一つ厳島弁財天の分身像を祀っている。万治元年(1658)広島城浅野家より上田城仙石忠俊候に輿入れした亀姫が守り本尊として捧持してきたものである。 山門前には日蓮上人像、日進聖人蟄居遺跡碑が建っている。 |
街道に戻ると右手に問屋跡がある。 ここには、人馬の宿泊や送迎、貨物の継送りをする問屋があった。大名の通行の際は、川西や塩田方面のたくさんの人や馬が集まり、佐渡の金を江戸へ送る時には、厳しい警戒が敷かれた。原町の問屋は、滝沢家が務め、柳町・田町の世話役も兼ね、年寄役数人を補佐に町政に携わっていた。 |
街道右手に池波正太郎氏(1923~1990)の 「真田太平記」、「鬼平犯科帳」、「剣客商売」 などの作品を展示した真田太平記館がある。 |
土橋跡 | 毘沙門堂 | 浄楽寺 | 柳町 | |||
上田市ふれあい福祉センター前の交差点には、江戸時代初めに橋の表面を土で覆った土橋が架かっていた。 橋の上にも家が建てられていたので、道路と見分けがつかなかったという。上田城防衛のため戦略上偽装されたと云われる。 |
中央3丁目交差点を越えると街道の右手に並行する小路脇に毘沙門堂がある。 仙石氏領主時代に上田城の鬼門に当たる位置に京都鞍馬山月性院の僧實眼が上田城の安泰を祈願して建立したと云われている。 |
毘沙門堂の奥に浄土真宗本願寺派の白鳥山浄楽寺がある。 浄楽寺の創建年代等は不詳であるが、本堂は昭和61年(1986)に再建、鐘楼は平成16年(2004)に建立されている。 |
中央3丁目交差点を左折すると直ぐ右手に旧北国街道の柳町がある。 柳町には、梲の上がった家や連子格子の家並みが続いている。入口のこの場所には、縁結び水掛地蔵尊があり、水をかけると隣の水琴窟からきれいな音色が聞こえる。 |
柳町家並み | 保命水 | 神宮橋 | 上田大神宮 | |||
梲の上がった家、連子格子の家、庵看板を掲げた酒屋など旧北国街道の町並みを色濃く残している。 2階に取り付けられた格子は、長いものと短いものがあり、「親付き切り子格子」 と云われる。 |
柳町の北側に保命水がある。 この保命水と呼ばれる井戸は、明治14年(1881)に新田の海禅寺境内に湧き出る清水を木管で引いたもので、生活用水、非常用水としたものである。 ここには、明治14年(1881)の古松貞夫誌、旭峰内海正暉書の保命水の石碑が建っている。 |
保命水の北に千曲川支流の矢出沢川に架かる神宮橋がある。 橋の袂には、道祖神の石祠、みはしと刻まれた石柱、行灯を模した橋標などが建っている。 |
神宮橋を渡った先の突当りに上田大神宮がある。上田大神宮は、伊勢皇大神宮の末社であり、明治19年(1886)に伊勢信仰を全国に広めるため、長野・新潟・群馬三県の教化及び大麻(おふだ)頒布の本拠地として建てられたものである。 境内には、境内社の恵比寿神社、三峰神社、芭蕉が貞享5年(1688)伊勢神宮参拝の折に詠んだという句碑 「何の木の花とはしらず匂いかな」 が建っている。 |
菱屋 | 泉屋 | 八幡神社 | 西脇稲荷神社 | |||
街道に戻って神宮橋の手前を左に曲がると右手に昭和5年(1930)創業の武田味噌醸造の直売店の 「菱屋」 がある。 明治元年(1868)に建築された民家を使用し、家紋の武田菱を染め抜いた藍いのれんが目印である。 |
菱屋の先で緑橋を渡ると右手に紺屋町の泉屋が建っている。 この家は、文政9年(1826)の紺屋町大火後、上田藩が職人町再建のため海野宿より移設した建物である。泉屋小泉弥重が藩士の裃用などの型付け藍染め工房を開いていた。享保9年(1828)米・大豆・小豆・塩などを商う穀屋を開業した。大屋根の開閉式煙出しは、蚕種製造のため明治になってから付け加えられたものである。 |
街道右手の紺屋町公会堂手前の路地を進んで国道18号線を渡ると突当りに八幡神社がある。八幡神社の創建年代は不詳であるが、真田安房守昌幸が天正12年(1584)上田城築城にあたり、鎮護のために小県郡東部町海野宿の八幡神社を移したと伝えられている。 境内には、稲荷社、蚕影社、兜石八幡宮などの境内社がある。 |
上田新町郵便局を過ぎて左手の壁に六文銭を付けた西脇会館を左に入ると西脇稲荷神社がある。西脇神社は、天正11年(1583)真田昌幸が上田城築城の折、城囲いとして上平地籍から村人が移った時に創建したと云われている。その後、文化年中また安政6年(1859)の二回の改築を経て、現在の社殿は平成15年(2003)に改築された。 境内には、大山祇神(山の神)、北野天満宮、道祖神、二十三夜塔がある。 |
旧家 | 向源寺 | 五社神社 | 道標 | |||
街道に戻ると右手に梲の上がった屋根に気抜き窓の付いた旧家が2軒並んで建っている。 養蚕で使われていた家であろう。 |
街道右手の新町公会堂の横に冠木門があり、矢出沢川の先に浄土真宗の西講山向源寺がある。 向源寺の創建は、永正17年(1520)浄空が開いたのが始まりと伝えられている。当初は上田原にあったが、寛永3年(1626)に現在地に移った。向源寺は、小林一茶が数年間過ごしたことでも知られている。 |
向源寺の手前左手に創建年代等不詳の五社神社がある。 滑り台が置かれた広場には、道祖神、石祠、石柱に乗った4つの社がある。 |
街道に戻ると左手路地口に北向観世音道と刻まれた万延元年(1860)の道標が建っている。 この道標は、別所にある北向き観音を指す道標であり、明治28年(1895)上田橋が完成するまで上田と別所を結ぶのは、この道だけであった。 |
芳泉寺 | 延命地蔵堂 | 高橋 | 道標 | |||
北向観世音道標のある路地を100m程南下すると右手段上に浄土宗の松翁山芳泉寺がある。芳泉寺は、開創当時は常福寺と称し、真田信之の菩提寺であったが、信之の後に上田城主となった仙石忠政が小諸の宝仙寺をここに移し、忠政の子二代上田城主政俊の死後、芳泉寺と改称した。 墓所には、仙石家の霊廟、真田信之夫人 「小松姫」 の墓がある。 |
芳泉寺の前の道路脇に延命地蔵堂がある。 地蔵堂の前には馬頭観音があり、その向かい側の芳泉寺の石垣に庚申塔、馬頭観音、二十三夜塔が建っている。、 |
街道に戻ると枡形となったところで矢出沢川に架かる高橋を渡って行く。 | 高橋を渡って左に曲がると突当りに元禄5年(1692)の道標が建っている。 道標には、「右せんかうじ道」 と刻まれている。 この辺りは諏訪部と呼ばれ、古代には須波郷に含まれていた古い由緒もつ地である。千曲川を隔てて諏訪形のあることなどから、古代において諏訪氏に関係があったと云われ、鎌倉時代に勢力を伸ばした諏訪部氏の本拠地があったところと伝えられている。 |
延命地蔵尊堂 | 正福寺 | 道標 | 秋和杉並木古株 | |||
道標から程なく右手の生塚自治会館の隣に延命地蔵尊堂がある。この地蔵尊は、檜の寄木造りで半跏形式の延命地蔵菩薩坐像である。面長の顔つきや衣文の表現と彫技から江戸中期の作と云われている。 天正11年(1583)真田昌幸が上田城築城後、当時山裾にあった通称 「堂屋敷」 付近の住民が現生塚に移転を命ぜられた際、併せて地藏堂も移転したものである。 |
延命地蔵尊堂の先で国道18号線に合流し、100m程先の常盤城4丁目信号の手前右手に旧道があり、旧道口に真言宗智山派の智徳山正福寺がある。正福寺の開創年代は、天平年間(729~748)と云われている。 境内には、寛保2年(1742)の千曲川大洪水(戌の満水)で諏訪部に流れ着いた死骸を集めて正福寺に埋葬し、流死含霊識と刻んだ碑を建てて供養した千人塚がある。 |
正福寺の塀の前に北国街道と記された道標が建っている。 | 旧道を進むと程なく右手に覆屋に安置された秋和の杉並木古株がある。 秋和の杉並木は、真田昌幸が上田城築城の際、城下を囲む八ヶ村のひとつ秋和村の北国街道沿いに植えたと伝えられている。 |
長昌寺 | 馬頭観音 | 秋和公会堂 | 分岐 | |||
杉並木古株の先右手に曹洞宗の少林山長昌寺がある。 長昌寺は、飛騨守小林長昌が飛騨高山に城を築いていたが、武田氏に追われ妻の里である村上義清を頼り、此の地で出家し小林堂を建立したのが始まりという。 境内には、筆塚、庚申塔、稲荷社などがある。 |
長昌寺を出ると左手の用水路脇に小さな馬頭観世音碑が建っている。 | 街道を進むと左手に秋和公会堂がある。 秋和公会堂の前には、道標と題した北国街道の解説碑が建っている。 街道脇の用水路の水は清らかで沢蟹が動きまわっているのが確認できる。 |
秋和公会堂の先でY字路となり、街道は右手の道を進んで行く。 この分岐の中央には小さな道標が建っており、「右ねずみ 信仰の道」 と刻まれている。 ねずみとは、埴科郡坂城町のねずみ集落を指している。 |
道標 | 常夜燈 | 地蔵菩薩 | 道標 | |||
分岐の先を進むと十字路を越えた右手に北国街道杉原の道標が建っている。 | 北国街道道標の先の十字路右手に4基の常夜燈、猿田彦大神碑が建っている。 この猿田彦大神碑は、寛政12年(1800)に村人千人を要して村人や北国街道の旅人の安全を祈願して建立されたといわれる。 ここを北に登って行くと上田バイパスを越えた山復に豊秋霧原埜神社がある。 |
上田バイパスに突き当たる手前の右手に地蔵菩薩が建っており、隣に 「道しるべの碑」 の標識が建っている。 | 地蔵菩薩の脇から斜面を登ると旧道痕跡の脇に文久元年(1861)の道標が建っている。 道標には、「右北国街道 左さくば道」 と刻まれており、道標の当たりが一里塚跡と云われている。 |
道標 | 北陸新幹線 | 慰霊碑 | 相撲年寄信濃石品吉之碑 | |||
上田バイパスの高架下を潜ると突当りに道標が建っている。 道標には、「北国街道」、「信仰の道」、「大名行列の道」、「金の道」 と記されており、更に突当りを右折すると小川に架かる橋の袂に 「北国街道」、「蚕種の里」 と記された道標がある。 |
小川を渡って行くと北陸新幹線の高架が街道を横切っている。 | 北陸新幹線の高架下を潜って進んで行くと右手に長野県知事林虎雄揮毫の慰霊碑が建っている。 | 慰霊碑の直ぐ先の座摩神社の参道入口に相撲年寄信濃石品吉之碑がある。 座摩神社では、八十八夜の祭りに奉納相撲が行われていたという。 信濃石品吉之碑の一段上には、明治20年(1887)の内閣書記官巌谷修書の漢文碑が建っている。 |
気抜き屋根 | 石垣の見事な旧家 | 東福寺 | 鍾馗像 | |||
上塩尻の集落には気抜き屋根の付いた家が残っている。 道標に 「蚕種の里」 と記されていたが、かつて養蚕をしていた家である。 |
気抜き屋根の家の先には、石垣が見事な旧家がある。 | 石垣の見事な旧家の先で右手の坂道を上って行くと真言宗智山派の虚空山東福寺がある。 東福寺は、元亀元年(1570)に現在地から更に北に登った虚空蔵堂が寺の発祥であると云われ、行基上人が開基したという。 境内には、一石三体の地蔵尊、善光寺四十八慶供養塔、西国坂東秩父百番供養塔、再建された観音堂などがある。 |
街道を進んで国道18号線に合流し50~60m程進んだ右手に蓬蘆書屋と書かれた門の屋根に鍾馗像が立っている。 この家も気抜き屋根が付いており、かつては養蚕をしていた家であろう。 |
旧道口 | 道祖神 | 沓掛酒造「郷の蔵」 | 男女双体道祖神 | |||
鍾馗像のある家の直ぐ先で右に入る旧道口がある。 ここから上田市下塩尻の集落に入って行く。 |
下塩尻の街道を進むと左手に道祖神が建っている。 | 道祖神から程なく街道脇に聳える大きな蔵が建っている。 ここは元禄年間(1688-1703)創業の沓掛酒造であり、直売店 「郷の蔵」 は街道左側の国道18号線に面している。 街道沿いには、銘柄の由来となった観音経の一節から引用された 「福無量」 の碑が建っている。 |
沓掛酒造の直ぐ先の民家脇に新しい男女双体道祖神が建っている。 傍らには北国街道下塩尻の標識と「 無始無終」 と刻まれた石碑がある。 |
川沿いの街道 | 下塩尻岩鼻 | 鞍掛橋 | 筆塚碑 | |||
集落を抜けると右手に山が迫り、左手に小川が流れる街道を進んで行く。 | 和合城跡の道標の先で国道18号線に合流すると右手に巨大な 「下塩尻岩鼻」 が迫っている。 この岩は、太古には対岸の岩とひと続きであり、千曲川の浸食によって削られたと云われている。 対岸の岩は、「半跏岩鼻」 と呼ばれて区別されている。 |
岩鼻出っ張り辺りで埴科郡坂城町に入って行くと国道18号線から右に入る旧道に鞍掛橋がある。 ここから會地早雄神社までは小川に沿った道を進んで行く。 |
鞍掛橋の次の蛍橋のところに碑の上部が剥がれた明治20年(1887)の西澤翁筆塚碑が建っている。 |
一里塚橋 | 會地早雄神社 | 茶屋本陣跡 | 鼠宿の街道 | |||
筆塚碑を過ぎると一里塚橋がある。 一里塚橋とその先の宮前橋との間に北国街道鼠宿跡解説が建っている。 會地早雄神社の先から鼠宿と呼ばれ、北国街道の上田宿と坂木宿の間宿であり、松代藩が設けた私宿であった。 |
鼠宿の南端に当たるところに會地早雄神社がある。 會地早雄神社の創建年代は不詳であるが、境内入口に享和元年(1801)の神橋、その右手に文政8年(1825)の万葉歌碑、明治20年(1890)の芭蕉句碑などがある。万葉歌碑は天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣された埴科郡の書記官である神人部子忍男が詠んだものである。 |
国道18号線に合流して進むと 「ねずみ」 交差点の手前左手に明治天皇鼠宿御小休処附御膳水碑、明治天皇鼠宿御小休所碑が建っている。 |
ねずみ交差点の先は真っ直ぐ北上する北国街道が新地交差点の先まで続いている。 |
秋葉神社 | 旧道口 | 白山神社 | 道祖神 | |||
街道右手の新地公民館の敷地内に秋葉神社がある。 この秋葉神社は、文化4年(1807)に建立された火之迦具土大神を祀る火の神様である。 |
新地交差点を過ぎると左手の柳屋車検板金整備センターの向かいから右に入る旧道口がある。 ここには中部北陸自然歩道の道標が建っており、「村上義清公墓所3.3km」 と記されている。 |
旧道に入ると直ぐ右手に白山神社がある。 白山神社の創建年代は不詳であるが、拝殿前には御神燈、正一位稲荷神社の石祠がある。 |
白山神社から10m程先の南条集会所の庭先に道祖神がある。 |
筆塚 | 井戸 | 筆塚・地蔵堂 | 小路の先の五輪塔 | |||
南条集会所の隣の南条小学校校庭の向かいに嘉永2年(1849)の筆塚碑が建っている。 | みやした文具店の向かいの家の庭先に井戸がある。 かつては釣瓶井戸であったようで屋根に滑車が付いているが、今は井戸枠に手押しのポンプが付けられている。 |
井戸の先の十字路手前左手に大正13年(1924)の開墾碑、大正6年(1917)の筆塚碑が建っており、その奥に地蔵堂がある。 御堂の前には、大正13年(1924)の甲子塔、享保2年(1717)の石燈籠、筆塚などがある。 |
街道を進んでいくと街道左手の畠中小路の標柱の次の並木小路の標柱の先に五輪塔、石祠がある。 |
井戸 | 顕彰碑 | 道祖神・往海玄古碑 | 酒玉神社 | |||
続いて左手のつるべ小路の標柱のあるところに井戸がある。 この井戸は釣瓶も手押しポンプも無く、危険防止のため網で覆われている。井戸の奥には小さな五輪塔が建っている。 |
街道を横切る谷川を渡った右手の道路沿いに顕彰碑が建っており、左手のガードレールの間に交通安全地蔵尊が建っている。 |
谷川を渡るとT字路右手の角に道祖神が建っている。 道祖神の奥には往海玄古碑があり、「往海玄古 主庵」、「たばこがんそ 埴科郡横尾村」 と刻まれている。この碑は、江戸時代初期にたばこ栽培を広めた往海玄古の碑で、明治になるまで玄古たばことして、この地の名産品であった。 |
往海玄古碑の先を東に上って行くと右手に酒玉神社がある。 酒玉神社の創建年代等は不詳であるが、境内には石燈籠、大山祇神碑、新しい石祠などがある。 |
小滝家の門 | 稲荷神社 | 西念寺 | 道標 | |||
街道に戻ると道祖神の直ぐ先の横尾ミニ公園の一角に 「小滝家の門」 解説が建っている。 解説には、「この門は、旧南条保育園の正門として、昭和46年から平成17年まで、地域の象徴として愛されていました。」 と記されている。 |
街道を進むと右手の民家の間に屋根の付いた鳥居があり、鳥居の奥の石段を上がった段上に稲荷神社がある。 稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、拝殿の裏の段上に稲荷大明神と刻まれた石塔と石祠が建っている。 |
街道が国道18号線に合流する手前右手に浄土宗の本昌山西念寺がある。 西念寺の創建代等は不詳であるが、参道口には芭蕉句碑、徳本の名号碑などがあり、境内には法爾堂、天満宮、観音蔵などがある。 |
国道18号線との合流地点に中部北陸自然歩道の道標が建っており、「村上義清公墓所1.8km」 と標記されている。 |
文化の館 | 天領中之条陣屋跡入口 | 中島仲重先生生誕之地碑 | 中条神社 | |||
国道18号線に合流して間もなく右手に長屋門の 「文化の館」 がある。 この建物は、中之条出身で現在東京都在住の塚田通明氏から坂城町に寄贈されたもので、往時の建築・庭園が残されている。 |
文化の館の向かいの路地に天領中之条陣屋跡入口碑が建っている。 中之条陣屋は、江戸幕府の直轄地(御料所)の支配所である。 宝暦4年(1754)坂木陣屋は中野へ移動出張陣屋となる。 同9年出張陣屋廃止となり、明和8年(1771)中之条に御用場(仮陣屋)が置かれる(支配地32ヶ村)。 その後陣屋の整備がなされ、安永8年(1779)本陣屋となった。 |
街道左手の小宮山食品の手前に中島仲重先生生誕之地碑が建っている。 | 坂城町中之条横断歩道橋を右に入ると中条神社がある。 中条神社の創建年代等は不詳であるが、鳥居脇に男女双体道祖神が祀られ、境内には中之条陣屋稲荷社、金比羅社などの境内社、庚申塔、石祠などがある。 |
旧道口 | 坂村真民詩碑 | 四ツ谷の甘泉 | 堂叡山道 | |||
中条神社を過ぎると左手に常夜燈などが建っている旧道口がある。 ここには、万延元年(1860)の常夜燈のほか天明6年(1786)の筆塚、嘉永2年(1850)の筆塚、明治14年(1881)の筆塚が建っている。 |
街道を進んで行くと左手の㈱ロビ二アの敷地内に仏教詩人・坂村真民の 「念ずれば花ひらく」 と刻まれた碑がある。 詩の全文は、「苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうしてそのたびに わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった」 である。 |
御堂川を渡って国道18号線の四ッ屋交差点を渡り、道標のある右前方の旧道を入ると右手の民家の塀に甘泉と刻まれた石碑がある。 石碑の下には石桶があるが水は流れ出ていない。これは四ツ谷の甘泉と呼ばれ、旧北国街道沿いの名水として古くから知られており、この碑の文字は文化11年(1814)天領であった坂木五千石の代官・男谷彦四郎燕斉(勝海舟の叔父)の書と云われている。 |
街道左手の富山酒店の向かいの路地角に堂叡山道道標が建っている。 御嶽講信者の崇拝していた標高1298mの大道山は、別名堂叡山と呼ばれ、ここが登山道の入口であったらしい。 大道山(堂叡山)の山頂には、御嶽講関係の石仏が麓の坂城町を見下ろすように並んでいるという。 |
長屋門の旧家 | 石塔群 | 沓掛仲子・水野源三詩碑 | 田町十王堂 | |||
堂叡山道道標から程なく右手に長屋門の立派な旧家が建っている。 この家は、気抜き屋根の付いた建物で蚕種製造業だった家である。 |
入田川に架かる小さな栄橋を渡ると左手に注連縄の巻かれた二十三夜塔、道祖神、大正6年(1917)の庚申塔が建っている。 | 石塔群の直ぐ先に同じ坂城町生まれの沓掛仲子と水野源三の詩碑が建っている。 この詩碑の建っている同じ区画に文化12年(1815)の筆塚が建っている。 |
筆塚の向かい側に田町十王堂がある。 生前に十王にお参りすると、死後の裁判のとき手心を加えてくれるとされ、信仰は人々の間に広まり江戸時代は各村落に十王堂が設けられていた。 田町十王堂は閻魔堂とも呼ばれ、戦国武将村上義清の家臣・出浦氏の墓地にあった御堂を利用して祀られたと考えられている。 |
村上義清公墓所 | 西宮神社 | 心光寺 | 坂城駅 | |||
田町十王堂の裏に村上義清公墓所がある。 この墓所は、明暦3年(1657)越後高田藩の所領・坂木五千石の奉行となった長谷川安左衛門利次が建てたものである。 村上義清は勇猛で知られた信濃埴科郡葛尾城主で、その武勇を持って佐久・埴科・小県・水内・高井郡など北信濃の各地を支配下に治め、村上氏の最盛期を築き上げた。 |
街道を進み変則十字路を左折すると直ぐ右手に神明鳥居の西宮神社がある。 西宮神社の創建年代等は不詳であるが、境内には元治元年(1864)の手水鉢、天保2年(1831)の秋葉山碑、石祠などがある。 |
街道に戻ると直ぐ右手に浄土宗の唐埼山心光寺がある。 心光寺の創建年代等は不詳であるが、参道脇に亀の台座に乗った徳本の名号碑、筆塚があり、山門前に稲玉徳兵衛翁墓所碑、境内に観音堂、天満宮碑などがある。 |
心光寺の先で街道が右に直角に曲がる所で左手にしなの鉄道の坂城駅が見える。 坂城駅前には、若山牧水歌碑 「春あさき山のふもとに畑をうつうら若き友となにをかたりし」、高浜虚子句碑 「春雷や傘を借りたる野路の家」 があり、坂城駅前の東側は、坂木五千石と称された 「坂木陣屋跡」 であり、解説版が建っている。 |
葛尾城跡道標 | 坂木宿本陣跡 | 名主坂田家 | 大橋 | |||
坂城駅のところで街道が右に直角に曲がる所に 「葛尾城跡上り口」 道標が建っている。 葛尾城は、戦国時代に東北信一帯を支配した村上義清の居城である。義清は坂城を本拠地として、甲斐の武田信玄による信濃攻略に対し善戦したものの、天文22年(1553)義清は葛尾城を放棄して上杉謙信を頼り、越後へ逃れた。これが川中島の合戦に繋がって行ったと云われている。 |
葛尾城跡道標から少し上った右手に坂木宿本陣跡があり、街道に面して本陣表門が建っている。 この本陣表門は、江戸中期の建造物で本陣唯一の遺構である。門の奥の3階建ての建物は、坂木宿ふるさと歴史館で村上義清等の資料などが展示されている。 敷地の北側には明治天皇御小休所碑が建っている。 |
直ぐ先の街道右手に気抜き屋根の付いた名主「坂田家」 がある。 | 坂城郵便局の先で日名澤川に架かる大橋を渡って大門町に入ると旧家が建ち並んでいる。 |
満泉寺 | 長谷川井戸 | 善光寺常夜燈 | 道祖神 | |||
旧家の先で街道は左に直角に曲がっているが、このまま直進すると右手に曹洞宗の村上山満泉寺がある。 満泉寺は応和3年(963)に創建され、当初は修善寺という天台宗の寺であったが、永正元年(1504)に曹洞宗に改宗し満泉寺と改めた。村上義清の居館は、葛尾城の南山麓の満泉寺とその周辺一帯であり、満泉寺は村上氏代々の菩提寺であった。 |
街道に戻って左に進むと直ぐ右手に滑車の付いた長谷川井戸がある。 この井戸は、当時の代官長谷川安左衛門利次が北国街道工事の一端として、日常生活、共同生活のため河水の飲用を止め、立町、横町、新町の三か所に設けたものの一つである。また宿場の美観のため町の中央にざくろ並木と用水路を設けた。 |
長谷川井戸の先で街道は左に直角に曲がり、その先の変則十字路左手角に善光寺常夜燈が建っている。 この常夜燈は、北国街道坂木宿の北口に嘉永6年(1853)に建てられたものである。 |
先に進むと右手道路角に道祖神が建っている。道祖神の後ろにも石碑があるが、文字が判読できない。 右からの道は、旧北国街道横吹道跡で中世においては極めて危険な細道であったが、慶長16年(1611)北国街道全通に当たり道幅を広げて交通の便にした。 |
地蔵菩薩 | 国道18号線 | 苅屋原(笄の渡し跡) | 筆塚 | |||
横吹新道を進んでしなの鉄道のガード下を潜って行くと右手の山裾段上に新しい地蔵菩薩が建っている。 交通安全地蔵菩薩かと思われる。 |
街道は国道18号線に合流し、右手の崖沿いの歩道を進んで行くと花壇があり、ここに 「横吹新道づくり」 と題された解説板が建っている。 | 街道を進むと左手千曲川沿いに林があり、東屋が建っている。 往時は、この辺りに榎並木が立ち並んでいた。天文22年(1553)武田信玄との戦いに敗れた村上義清の夫人が千曲川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れたという。 ここには、安永3年(1774)の芭蕉句碑、享和元年(1801)の二夜庵句碑、笄の渡し碑などがある。 |
笄の渡し跡の少し先左手に文久3年(1863)の筆塚が建っている。 |
泉徳寺 | 「舟つなぎ石」 標柱 | 庚申塔・道祖神 | 上戸倉宿本陣跡 | |||
筆塚の先右手に曹洞宗の松雲山泉徳寺がある。 泉徳寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、文化8年(1811)の宮本虎杖句碑 「夜桜や世に阿類(ある)ものの迎馬」、木馬の納めらえた御堂、道祖神などの石造物がある。 |
街道右手のしなの鉄道線の脇に「舟つなぎ石」標柱が建っている。 標柱には、「苅屋原の七不思議舟つなぎ石この先約10m」、「千曲川を挟んで力石へ行くには、渡し舟により行われ、この舟つなぎ石で乗り降りし、舟をつないだ。大水の際も舟つなぎ石につないでおけば流される心配はなかったという。現在は信越線の開通により石も渡船場もない。」 と記されている。 |
直ぐ先でしなの鉄道の岩崎街道踏切を渡るとY字路に庚申塔・道祖神が建っている。 ここから上戸倉宿に入って行くが、のどかな街道は幾分上り坂となっている。 |
街道を150~60m程進むと左手に空地があり、手前のゴミ集積所に看板がある。 この空地は北国街道上戸倉宿本陣玉井家の跡である。 前面の堰は宿場用水として設けられたものであるが、丘陵地のため千曲川引水不可能により貝喰沢沢水を水道方式により引水諸所に半切桶を伏せ貯水井戸として飲用に供し、落水をこの堰に放水し非常・日用用水として使用したという。 |
上戸倉宿本陣跡小出家 | 芝宮神社 | 二十三夜塔・道祖神 | 句碑 | |||
空地の玉井家跡の先右手に立派な小出家が建っている。 この家が玉井家の後を継いだ本陣小出家である。下戸倉宿と上戸倉宿で一宿であり、問屋業務は月の21日までを下戸倉宿で務め、22日から月末までを上戸倉宿で務めていた。 |
小出家の向かいに小さな芝宮神社がある。 社は土蔵作りで中に小さな社殿が納められている。 |
神社の先を左折して進んで行くと左から合流する道の左手に慶應3年(1867)の二十三夜塔と安永2年(1773)の道祖神が建っている。 | しなの鉄道の磯部踏切を渡って国道18号線に合流すると右手に句碑が建っている。 内容は不明である。 |
聖徳太子碑 | 水上布奈山神社 | 宗安寺 | 下戸倉宿本陣跡(柳沢家) | |||
国道18号線に合流して直ぐ左手の千曲坂城消防署の前を左に入ると、Y字路の中央に大正時代の聖徳太子碑が建っている。 街道はここを右に進んで直ぐ先で国道18号線に合流する。 |
街道をどんどん進んで戸倉交叉点を左折すると右手に水上布奈山神社がある。 諏訪大社より建御名方神を勧請して此の地の鎮守として崇敬された神社である。 現在の本殿は、江戸時代後期を代表する大隅流大工棟梁・柴宮長左エ門矩重により寛政元年(1789)に再建された。 上り竜・下り竜、唐獅子、仙人像など様々な彫刻が施された本殿は、国の重要文化財に指定されている。 |
水上布奈山神社の手前に浄土宗の宗安寺がある。 宗安寺の創建年代等は不詳であるが、境内には線刻の地蔵菩薩、庚申塔、稲荷社などがある。 |
戸倉交差点の先右手に明治天皇行在所跡碑が建っている。 ここは下戸倉宿本陣柳沢家の跡であり、柳沢家は明治以降衰退し、「上の酒屋」 と呼ばれた建物は残っていない。 下戸倉宿本陣は、ここ柳沢家とこの先の宮本家が勤めていた。 |
坂井家 | 戸倉駅 | |||||
戸倉駅入口交差点の左手に茅葺屋根の 「下の酒屋」 と呼ばれた坂井家が建っている。 この建物は古くから信濃屈指の大地主で酒造業を営む坂井銘醸で、母屋として使用していた振舞い用の座敷を利用して蕎麦店を開いている。敷地内には400年の間に立てられた建物群がイベント施設や資料館など文化交流施設として公開されている。 |
坂井家前を右に入るとしなの鉄道の戸倉駅である。本日の街道歩きはここまでである。 |