ここ鼠宿は、北国街道の上田宿と坂木宿の間宿であった。 真田氏は元和8年(1622)上田から松代に移ると、当時南条村と称していた金井村以南の地を鼠宿村と改め、翌9年に鼠宿村の北部と金井村の南部を合わせて新たに新地村を作ると共に、鼠宿・新地両村の共同経営とする 「鼠宿」 の宿場造成に着手した。 上田・坂木の両宿は幕府公認の本宿で、鼠宿は、松代藩が設けた私宿であった。 藩主の参勤交代・領内見分、藩士の日常出張等の際の宿泊・休憩の接待や、藩の荷物の継ぎ立てに当たらせ、口留番所を設けて人や物の出入りを取り締まった。 岩鼻は松代領と上田領の境界で、東・北信を結ぶ交通・経済・政治上の要衝であり、鼠宿の口留番所における人と穀物・酒・漆等に対する取り締まりは関所なみの厳しさであった。 岩鼻はまた坂木の横吹坂と並ぶ街道一の難所で、加賀の前田侯は参勤交代の際岩鼻を通過すると飛脚をたてて無事を国許に伝えたという。 宿場の南北の入口に桝形があり、道路は鼠宿・新地両村境でカギ形に屈曲し、道路の中央に用水を通し、川の東に沿って柳・榴・海棠等の並木があり、井戸がその間に点在した。 本陣(正式名は御茶屋)、脇本陣、問屋、馬宿のほか、一般旅人の休息する茶屋もあって、宿場はにぎわった。 宿場南端の会地早雄神社は由緒深い社で、境内に江戸時代に建立の万葉歌碑と明治に建立の芭蕉句碑が並ぶ。 明治維新を迎えて宿場は廃され、明治9年(1876)に北国街道は国道となったが、後信越本線の開通により街道交通はさびれていった。 以来幾多の変遷を経、今岩鼻の国道は新たな車時代の難所となり、建設省によって急崖が削られ、国道の拡幅、歩道の新設、緑地帯の造成の画期的な工事が竣工した。 これを記念し、昔日の面影をしのび、これを記して後世に伝えるものである。

宮前橋で国道18号線に合流する。

一里塚橋

宮前橋

北国街道鼠宿跡解説