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北国街道   (戸倉~篠ノ井)


平成28年8月13日(土) ☀  戸倉~篠ノ井  13.7㎞
本日は、下戸倉宿(戸倉駅前)からしなの鉄道線に沿った旧街道を進み、矢代宿の先で千曲川の 「矢代の渡し跡」 附近から下流の篠ノ井橋を渡って迂回し、少し戻る感じで対岸の 「矢代の渡し跡」 付近に出て、その先で北国西脇往還(平成27年9月完歩)と合流して篠ノ井駅近くまでの予定である。

戸倉駅 柳沢神社 観音菩薩像 下戸倉宿本陣跡(宮本家)
戸倉駅前の朝7:00、土曜日ということもあってか人や車の往来が無い。
空はどんよりと曇っているが、雨の心配は無さそうである。
街道へ出る前に戸倉駅の裏側にある柳沢神社へ寄ってみた。
柳沢神社は、京都伏見稲荷大神を勧請し、天保6年(1835)神祇道管領卜部朝臣良長より柳澤神社の社号を許され、一族の総本家は古くから下戸倉村の本陣を勤めており、文化7年(1810)儀右衛門久忠は苗字帯刀を許された。
街道に出て戸倉交差点を先に進むと右手の平林接骨院の庭に3基の観音菩薩像がある。
年代は不明だが、十三番石山寺、二番藤井寺などと刻まれている。
街道右手に駐車場脇に松の木が立っている。
ここが下戸倉宿本陣宮本家跡であり、駐車場の奥には宮本姓の新しい家が建っている。
松の木の下には石柱に乗った小社、句碑、石燈籠がある。

道標 旧道口 しなの鉄道と旧道 百万遍供養塔
下戸倉宿本陣跡の斜向かいの路地角に道標が建っている。
道標には、「左おばすてやはた道」 と刻まれており、道標を左に進むと月の名所の 「姥捨山」、正式名称 「冠着山(1,252m)」 がある。
国道18号線を進んで今井交差点を過ぎると右手に旧道口がある。
旧道は屋代交差点で横断するまで国道18号線に出ることは無い。この角地の家の植栽の中に石碑が建っており、「柳沢正則氏は木曽御嶽、末子不動尊の行者として云々」 と刻まれた 「柳沢霊神碑」 が建っている
旧道を進むと右手に山が迫り、山裾をしなの鉄道が走っており、その間に用水路が流れている。
途中、この付近にはイノシシが出没するという注意看板が建っていた。
右手の用水路が分れる水門のある所に百万遍供養塔が建っている。

信濃宮碑 柏王神社 柏岩寺 しなの鉄道
百万遍供養塔の直ぐ先の十字路左手の鉄塔の下に明治14年(1881)の信濃宮碑が建っている。
この碑は、「信濃宮御古蹟迄二町」 と刻まれた道標であり、信濃宮とは醍醐天皇の皇子宗良親王のことで、十字路を右に進んでしなの鉄道を渡った先にある柏王神社に鬢を埋めた塚がある。
信濃宮碑前の十字路を右に進むと山裾に柏王神社がある。
柏王神社は、主祭神を伊弉冉命、相殿を相良親王として1300年代に創建された。
柏王というのは、信濃宮と呼ばれた後醍醐天皇の皇子宗良親王のことで、南朝軍を率いて越後・信濃を転戦したが、此の地で病に罹り髻を供物し祈ったところ全快し、その髻を埋めた塚がある。
柏王神社の隣に曹洞宗の柏岩寺がある。
境内には薬師堂があるが、柏岩寺本堂に背を向けて柏王神社の方を向いて建っており、戸倉町指定有形文化財の木造薬師如来坐像が安置されている。
本堂の前には、徳本の南無阿弥陀仏名号碑、三界萬霊塔、庚申塔などが建っている。
柏岩寺から街道に戻る途中で30分に1本位の間隔で運行されているしなの鉄道の電車が通過したので撮影した。

道祖神等 旧家 青麻大神 寂蒔水除土堤
街道の右手に田圃が広がるところを進むと左手に南無阿弥陀仏名号碑、二十三夜塔、石柱に乗った石祠、道祖神が並んで建っている。 道祖神等の先を進むと左手に立派な門を構えたかなり大きな旧家が建っている。 街道をどんどん進んでしなの鉄道が近づいた右手の上町集会所の前に青麻大神と石祠が建っている。 上町集会所の隣に寂蒔水除土堤(じゃくまくみずよけどて)がある。
この土堤は、千曲川の氾濫から田畑や家屋を守るために、元禄6年(1693)寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋(いもじや)・打沢(うっさわ)・小島(おじま)の四か村によって築かれたものである。
この土手の植栽の中には、道祖神、二十三夜塔、宮坂柏二・寄香園闌頂の句碑がある。

浄海と芭蕉翁の碑 壁画 天皇子神社 永昌寺
寂蒔水除土堤の向かい側に浄海と芭蕉翁の碑がある。
周囲には馬頭観音、庚申塔などの石造物がたくさんある。
芭蕉翁碑の直ぐ先右手に大きな壁画がある。 街道を進んで左手の和田食品店の先を左に入ると天皇子神社がある。
天皇子神社の祭神は、第11代垂仁天皇の第14王子鳥取の王子と云われた 「伊登志和気命」 であり、古くは「王子の宮」、「王子神社」、「王子大明神」 とも呼ばれた。
境内には4本のケヤキの巨木があり、特に大木なのは鳥居の右側にある周囲の目通り8.7mの木である。
天皇子神社を過ぎると次の右手の路地に永昌寺寺標が建っており、ここを東に進んでしなの鉄道の踏切を越えたところに曹洞宗の繁久山永昌寺がある。
永昌寺の創建年代等は不詳であるが、境内には蔵造りの稲荷社、御堂横の部屋には永昌寺中興和尚月舟の書を彫刻した額を始めとした書などが掛けられている。

宮阪翁之碑 打澤神社 筆塚 満照寺
街道左手の埴生小学校の入口に明治25年(1892)の宮阪翁之碑が建っている。
宮阪喜昌は埴科郡の国文学者であり、碑は巌谷修の書であり揮毫である。
宮阪翁之碑を過ぎると右手のしなの鉄道を越えたところに打澤神社がある。
打澤神社の創建年代等は不詳であるが、境内には二十三夜塔、天満宮碑、東照宮碑などがある。
街道右手の埴生公民館小島分館の前を右に入って行くとブロック塀で囲まれた中に筆塚がある。 筆塚の先を進んでしなの鉄道を越えると屋代駅の裏手に当たるところに曹洞宗の名月山満照寺がある。
満照寺は、大永2年(1522)上野国碓氷郡秋間の桂昌寺第三世夫山総田が布教の折、屋代越中守政国に寄遇し総田と共鳴したことが縁で、此の地に伽藍建立をし総田を開山、政国を開基とした。

句碑 長福寺 筆塚・道祖神 小林柳翠先生碑
街道に戻ると直ぐ左手に句碑がある。 街道右手の宮野内肉店の角を右に進んで、しなの鉄道を渡ると浄土宗の輝徳山長福寺がある。
長福寺の創建年代等は不詳であるが、本堂は寺らしい造りではなく旧家といった感じである。建物の壁には武田菱が付いており、境内口に文化12年(1815)の徳本の南無阿弥陀仏名号碑が建っている。
街道に戻ると左手の屋代南高校入口に筆塚・道祖神と石燈籠が建っている。 先に進むと右手の小林百貨店の隣に小林柳翠先生碑が建っている。
小林柳翠は文久2年(1862)埴科郡屋代町に生まれた南画家で、福島柳圃師の門に学び、昭和4年(1929)に歿するまで製作に従事し各地に多くの名作を残している。

生蓮寺 藤屋旅館 須須岐水神社 矢代宿脇本陣跡
小林柳翠先生碑の斜向かいに浄土宗の関谷山生蓮寺がある。
生蓮寺の創建年代等は不詳であるが、境内には宝暦11年(1761)の岡崎城主奉納石灯籠、豊後杵築城主奉納石燈籠があり、何れも惇信院殿と刻まれている。惇信院殿は徳川九代将軍家重の戒名であるが、詳細は不明である。また境内社には、荼枳尼天を祀る豊川稲荷、観音堂などがある。
生蓮寺を出ると横町交差点の手前左手に旧旅籠を思わせる藤屋旅館がある。
二階の看板には 「ふぢや作治右衛門」 と記されている。
T字路の横町交差点に須須岐水神社がある。須須岐水神社の創建は、古代で此の地の産土の鎮守であり、古来より水神として崇敬され、18ヶ村の総社であった。
境内には、白鳳2年(651)創建の祝神社を始めとして高市神社、養蚕社のほか多くの境内社がある。
須須岐水神社を出て生坂屋商店の角を左折して進み、高見町交差点を過ぎると右手に矢代宿脇本陣跡の柿崎平九郎家がある。
門前には 「北国街道信濃矢代宿脇本陣跡」 標柱が建っている。
天保13年(1842)の矢代宿は、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠39に規模であった。
脇本陣の隣の道は、旧松代街道の入口に当たる。

矢代宿本陣跡 法華寺 屋代寺 市道升の浦線
旧松代街道の隣に矢代宿本陣跡がある。
建物は無いが、脇本陣と同姓の柿崎家が問屋場を兼ねて本陣を勤めていた。
ここには明治天皇御小休所碑、道祖神、万延元年(1860)の常夜燈などが建っている。
旧松代街道入口の向かいに真言宗豊山派の山王山法華寺がある。
法華寺の創建年代等は不詳である。
先に進むと法華寺と良く似た寺標の天台宗東龍山智照院屋代寺がある。
屋代寺の創建年代等は不詳であるが、境内には延命地蔵尊、二十三夜塔、宝篋印塔などが建っている。
屋代交差点で国道18号線に合流し、直ぐ先で左の市道升の浦線に入り、更埴インターチェンジの脇を通り、北淕新幹線の高架下の道を進んで行く。

矢代の渡し跡付近 迂回路 軻良根古神社 明治期の更科郡制中心地跡
千曲川の堤防に出ると北陸新幹線高架の手前辺りが矢代の渡し跡付近である。
ここから対岸の矢代の渡し跡付近の軻良根古(からねこ)神社の屋根が見える。
対岸までは堤防の道を進み、しなの鉄道の踏切を越え、その先で篠ノ井橋を渡って迂回して対岸の堤防を戻ることになる。 軻良根古(からねこ)神社の辺りが矢代の渡し跡付近である。
軻良根古神社の創建年代等は不詳であるが、上田盆地の湖の水に流されて死んだ大鼠は坂城町に流れ着き、大鼠を退治しようとした唐猫は此の地に流れ着き、この唐猫を祀ったのがこの神社だという伝説がある。
境内には明治天皇碑、太政社・天王社など多くの境内社や石碑がある。
県道77号線パイパスを過ぎた左手に明治時代の更級郡制の中心地解説が有る。
此の場所は郡役所を中心とした半径50mの範囲に諸役所や学校が置かれていた。
解説板の辺りが郡役所・警察署が置かれていた所である。

篠ノ井追分宿跡碑 欣浄寺 御神燈 題目碑
街道がT字路に突き当たる左手角に北国街道篠ノ井宿追分宿跡碑が建っている。この分去れ付近は篠ノ井追分宿と云われていたが、聞の宿で正規な宿場ではなかった
T字路左から合流してくる道は、北国西脇往還(善光寺道)で平成27年9月に歩いた道で、この先は善光寺まで歩いているが、北国街道として再び善光寺まで行くこととする。
篠ノ井追分宿碑から間もなく左手に浄土宗の心厭山欣浄寺がある。
欣浄寺の創建年代等は不詳であるが、境内には徳本の南無阿弥陀仏碑、文政8年(1825)の馬頭観音などがある。
街道を進むと北陸新幹線の高架の手前左手の空き地に寛政12年(1800)の御神燈が建っている。 北陸新幹線の高架を過ぎると右手の民家脇に南無妙法蓮華経題目が建っている。

舗装記念碑 順礼供養塔 松陰斎一露翁碑 見六の道標
題目碑の先右手の高須医院を過ぎると次の左手道路角に昭和35年(1960)の舗装記念碑が建っている。
県道篠ノ井-稲荷山線の旧篠ノ井地区沿道は、交通が激しい上に大型自動車などの通行で破損し、沿道住民は砂ほこりと、ぬかるみに絶えず悩まされて、雨戸を閉ざしてこれを防ぐような有様であったという。これを解消するために尽力したのが衆議院議員小坂善太郎であったと刻まれている。
舗装記念碑の直ぐ先の左手、グランドリバティ篠ノ井マンションの入口に順礼供養塔が建っている。碑には 「大乗妙典六十六部順禮百番供養塔」 と刻まれている。
この碑の裏にも碑面の一部が削られた小さな「秩父○○供養塔」 が建っている。
続いて左手の民家前に 「三世松陰斎一露翁碑」 が建っている。 直ぐ先の岡田川に架かる見六橋の手前に嘉永2年(1849)の道標が建っている。
この道標は正面に 「せんく王し(善光寺)道」 と刻まれ、上部に右手の人差し指の図が陽刻されている。また道標の右手に嘉永3年(1850)の筆塚が建っている。

香福寺 筆塚 頌徳碑 宝昌寺
岡田川に架かる見六橋を渡るとY字路となり、このY字路を左に進んで行くと直ぐ先左に浄土宗の五劫山香福寺がある。
香福寺は、
慶長10年(1605)独立和尚により開山された。
本尊は阿弥陀如来で、
境内には二対の六地蔵尊、馬頭観音、寺子屋師範を務めた桑原伴助の供養塔などが建っている。
香福寺の斜向かいに明治4年(1871)の筆塚が建っている 筆塚の先の赤い消火栓の置かれているところに宮入源之助先生の頌徳碑が建っており、手前に地蔵菩薩坐像が安置されている。 頌徳碑の直ぐ先左手に曹洞宗の徳壽山宝昌寺がある。
宝昌寺は松代藩の大家老鎌原氏が和尚の遺徳を慕って本堂再建にも多大な貢献したことから鎌原氏の家紋である 「蟹」 を寺の紋としている。
境内には、鬼女紅葉を退治した平惟茂将軍が、自らの姿を刻んだという 「甲冑薬師如来」 が祀られた薬師堂、文化10年(1813)の天満天神宮碑,、慶応元年(1865)の筆塚がある。

歯槽医殿 幣川神社 稲荷神社 記念碑
宝昌寺の直ぐ先で御幣川五叉路となり、この左角に歯槽医殿がある。
歯槽医殿は、寛政9年(1797)御幣川の村人・小林元右衛門、宮入兵右衛門が、この場所に社殿と野燈を奉納し、以来 全国にも珍しい虫歯の神様として祀られたものである。
御堂の中には石祠が祀られており、境内には寛政9年(1797)の常夜燈が建っている。
歯槽医殿の裏手に幣川神社がある。
慶長年間(1596~1614)に田用水の溝壁を開削中に甲越戦争の名将の兜標に用いたと思われる高さ5~6寸の黄金の御幣を堀出した。兜標には八幡宮の三字が刻まれていたため産土神として八幡宮を祀り、また、この頃村名もなかったので村名を御幣川と定めたという。
境内には、稲荷・養蠶神社、金比羅社、戸隠社などの境内社がたくさんある。
海道を進んで左手の旭屋精肉店の前の路地を右に入ると左手に稲荷神社がある。
稲荷神社の道路を挟んだ向かいには、一見民家にしか見えない龍燈山日蓮寺があるので、この稲荷社は日蓮寺の境内社ではないかと思われる。
境内には、南無妙法蓮華経題目、馬頭観音、地蔵菩薩などがある。
稲荷神社から街道に戻って進んで行くと、左手に大きな傳兵衛町開設記念碑が建っている。
本日は、時間的には早いがここで終了する。

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