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北国街道   (滋野~上田)


平成28年8月11日(木) ☀  滋野~上田  13.6㎞
一年ぶりの北国街道(善光寺街道)の再開となり、今回はいつも峠などを一緒に歩いている友人と二人での街道歩きである。前回は雷電碑のところで終了したため、早朝に東京駅を発って上田駅でしなの鉄道に乗り換え、滋野駅まで戻る形となった。天気は申し分ないが気温がやや高めで、陽射しを遮る並木なども無いので暑さ対策をして出発した。

力士雷電之碑 長閑な街道 明治天皇牧家御小休所碑 半鐘
しなの鉄道線の滋野駅から坂道を上って行くと雷電之碑の前に出る。
佐久間象山の撰文・揮毫により文久元年(1861)に建立された旧碑と新碑が2基並んで建っている。旧碑は勝負事にご利益があると云われて削られて碑文は確認できない。このため勝海舟、山岡鉄舟らによって新碑が建立された。
力士雷電之碑の先は、左手に畑が広がり胡桃の木があり、旧街道の面影を偲ぶことが出来る。
胡桃の木の先には長屋門の旧家がある。
長屋門の旧家の斜向かいに明治天皇牧家御小休所碑が建っている。 街道をどんどん進んで行くと左手の路地角に半鐘が建っている。
この先、いたるところで半鐘を見かけることとなる。

土蔵門 筆塚 念仏堂 縣諏訪神社
加沢地区で街道が右に緩やかに曲がる右手に土蔵門の旧家がある。 街道を進むと左手の民家の植栽の中に慶應3年(1867)の筆塚がある。
隣に筆塚の由緒碑があるが、漢文で全く読めない。
所沢川に架かる加沢橋を渡ると右手の路地先に念仏堂がある。
この念仏堂は、寛保2年(1742)の千曲川流域で発生した大洪水 「戌の満水」 の際、支流で加沢を流れる所沢川の水害で犠牲になった人たちの供養のために建てられたと伝わっている。境内には、たくさんの五輪塔、三界萬霊塔、阿弥陀如来像などがある。
街道に戻ると右手の森に縣諏訪神社がある。
縣諏訪神社は、字古宮と呼ばれる地に鎮座していたが、水害のため、享保元年(1716)現在地に遷座し、明治6年(1873)郷社に列した。
境内には、享保9年(1724)の手水鉢・御神燈、石祠などがある

芭蕉句碑 馬頭観世音 街道家並み 長久寺
縣諏訪神社の参道を出ると突当りの民家の植栽の中に文化14年(1817)の芭蕉句碑がある。句碑には、「あかあかと日ハつれなくも秋の風」と刻まれている。元禄2年(1689)7月に奥の細道の道中、金沢から小松へ向かう途中に詠まれた句である。 芭蕉句碑のある民家の向かいの坂道を少し入ると左手に昭和5年(1930)の馬頭観世音碑が建っている。 街道に戻ると車も人もほとんど往来の無い長閑な街道が続いている。 常田南交差点を渡ると田中宿であり、右手に成田山の寺標が建つ真言宗智山派の長久寺の参道がある。
長久寺の前身である善福寺が建てられたのは長久2年(1040)と言われ、常田氏の祈願所であったが、武田勢と村上勢との合戦の際、兵火により焼失したと云われる。その後、常田氏は羽黒に堂を再建し、善福寺創建の年号長久をとって長久寺と改めた云われる。参道には、六地蔵尊、芭蕉翁碑、馬頭観世音碑などがある。

法善寺道道標 常田の剣持道祖神 筆塚 いいなり地蔵尊
長久寺を出ると次の右手路地角に大正9年(1920)の法善寺道道標が建っている。
道標には、「従是法善寺道」 と刻まれている
法善寺は、ここから北に進み国道18号線を越えて500mほどのところにある日蓮宗の寺院である。
法善寺道道標の脇を北に入って行くと常田公民館の前に安政4年(1857)の 「常田の剣持道祖神」 がある。
この道祖神は、男神の持つ剣が女神のはかまのひだで表した部分にあてられており、男女の陰陽を表している道祖神と云われている。
常田公民館の脇に明治26年(1893)の筆塚が建っている。
また、常田公民館の庭には皇紀2600年5月建立の常田水道記念碑が建っている。
街道に戻ると左手の路地を進んだY字路右手に 「いいなり地蔵尊」 がある。
この地蔵尊は、応永15年(1396)に建立され、願い事は何でも聞いてくれると云われ、特に首から上の病を治し、また、地蔵尊の前の小石をお借りしてイボを撫でると治ると云われ 「イボとり地蔵尊」 とも言われている。
周囲には、子育地蔵尊、男女双体道祖神など多くの石造物がある。

薬師堂 田中宿脇本陣跡 本陣門 田中の勝軍地蔵
いいなり地蔵尊から街道に戻ると右手に 「田中の石造仁王像」 標柱が有り、その脇を北に入って行くと薬師堂がある。
薬師堂の前には、赤く染められた仁王像が2基建っている。左側は明和3年(1766)、右側は寛政8年(1796)と刻まれている。
境内には、金精様が祀られた御堂、戌の満水塔、道祖神、石祠などがある。
街道に戻ると高木屋の屋号の掛かる店に 「田中宿脇本陣跡」 の看板がある。
田中宿は、慶応3年(1867)の大火で焼けつくされ、明治時代に本陣、脇本陣は廃業となり、往時の建物は全く残っていない。
高木屋の先の右手の道を入った民家の前に本陣門が移設されている。
失礼して本陣門をくぐると庭先に明治天皇田中御小休所碑が建っている。
田中駅前交差点の右角に田中の勝軍地蔵尊がある。
勝軍地蔵は、悪行や煩悩を破り勝つという仏様で、防火神としても信仰され、江戸時代田中宿内で防火のため造立したものと云われている。
馬上の武人・波台座の彫刻は造形的にも優れ、武人の背面に天明6年(1786)、台座に寛政5年(1793)と刻まれている。

筆塚 道標 遊歩道口 柳哉句碑
田中駅前交差点を過ぎると左手の田中集会所の前に筆塚が建っている。 田中駅前交差点に海野宿1550mの道標があったが、筆塚を過ぎたところで海野宿1270mの道標があり、この先、しばしばこの道標を見ることになる。 街道を進むと東御市小学校のところで左に進むように海野宿900mの道標が建っている。
遊歩道口の民家の玄関前には馬頭観音が建っている。
車の往来が無いので遊歩道に入らずに進み、三分川に架かる三分橋を渡ると右手の段上に柳哉句碑が建っている。
柳哉は、本名を宮下久太郎といい、明治14年(1881)この地三分に生まれ、俳号を第二世浮世庵柳哉という。
句碑には、「痩せたまゝ 遂に石間の 草枯るゝ」 と刻まれている。

海野宿碑 白鳥神社 海野宿東端 旧地蔵寺跡
海野バイパス高架下を潜り、その先でしなの鉄道の踏切を渡ると右手に北国街道海野宿碑がある。
ここには万貫石と呼ばれる巨石があり、直ぐ脇の民家前に文久2年(1862)の馬頭観世音碑が建っている。
海野宿碑を過ぎると正面のこんもりとした林の中に白鳥神社がある。
白鳥神社は、古代天皇の命を奉じて東征の途に就いた日本武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世に栄えた豪族・海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としている。
境内には、大黒天・恵比寿神、稲荷社、新海社、石祠、道祖神、陰陽石などがある。
白鳥神社の先は海野宿の建物が続いている。海野宿の成立は寛永2年(1625)と云われ、宿場の東端に白鳥神社があり、街道のほぼ中央に用水が流れている。
宿場の東西には枡形が置かれ、その長さは約6町(650m)であった。宿場時代の建物の多くは、旅籠屋造で出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が今もよく残されている。
海野宿に入って直ぐ右手に旧地蔵寺跡がある。地蔵寺の創建年代は不詳であるが、海野家臣赤石藤治友信の開祖南屋敷の一角に小庵を建て、媒(なかだち)地蔵菩薩を安置して正行堂と称したことに始まる。昭和26年の大火で本堂等全て焼失し、昭和29年に願行寺(上田市)へ合併された。
境内には、媒地蔵尊・馬頭観音・庚申塔・百万遍供養塔などがある。

養蚕御視察記念碑 宿並み 海野宿歴史民俗資料館 重要伝統的建造物群保存地区
街道左手の用水路脇に昭和24年(1949)に貞明皇后が、この地域の養蚕奨励のために訪れた際の 「養蚕御視察記念碑」 が建っている
記念碑の正面には、「貞明皇后 養蚕御視察記念碑 尾崎行雄著」 とあり、裏面には、「畏くも貞明皇后蚕糸御奨励の思召しを以て昭和24年6月19日御来臨の栄を賜る事を記念して建立」 と刻まれている。
養蚕御視察記念碑は、直ぐ先の荒物屋前にも建っている。
街道には梲の上がった家や屋根に鯱が付いた家が建ち並んでいる。 海野宿歴史民俗資料館は、江戸時代(寛政年間1790年頃)に建てられた旅籠屋であり、旅人は相部屋で泊まった。
明治時代に入って宿場の機能が失われると共に旅籠屋造りを残し養蚕農家として利用した。資料館前には、一茶句碑 「夕過乃臼の谺の寒哉」 が建っている。
海野宿歴史民俗資料館の先に重要伝統的建造物群保存地区標柱と日本の道100選標柱が建っている。
この付近は旅籠屋造の出梁造りや海野格子の二階の出格子の家が建ち並んでいる。

馬頭観音 海野宿本陣跡 馬の塩舐め石 路地道
重要伝統的建造物群保存地区標柱の向かいの家の前に安永9年(1780)の小さな馬頭観音が建っている。 街道右手に長屋門の本陣跡がある。
海野宿は、藤田信吉の子五兵衛吉道から本陣を勤め、それ以来八世藤田傳左衛門国直まで本陣を勤めた。
加賀藩は、参勤交代の全回数188回の内、179回はこのコースを通っているという。
長屋門の前には、本陣跡碑、進善学校及び風声学校跡碑が建っている。
街道右手の大嶋家の前に馬の塩舐め石がある。
この石は、伝馬のために塩を盛って舐めさせたものである。
右手の路地道はかなり奥まで続いている。
この路地角には穴の開いた馬つなぎ石が置かれている。

高札場跡 興善寺道標 手づくり郷土賞碑 海野宿西端
海野宿を8割ほど進んだところに復元された高札場がある。
この路地には大石に乗った男女双体道祖神、石祠などがある。
海野宿を南北に交差する道の角に海野氏菩提寺興善寺道標が建ってる。
興善寺は、ここより北へ1km程のところにある曹洞宗の寺院で、真田氏本家海野氏の菩提寺である。
興善寺道標の手前の用水路脇に手づくり郷土賞碑が建っている。
埋め込まれたプレートには、「身近な道や川を地域の人々の創意工夫や努力により、魅力あるものに創り出していることに対して建設省は、この賞を設け広く世に紹介するものです。海野宿は、地域住民が一体となり宿場町の面影を保全する一方、景観と調和のとれた道路整備が高く評価されたました。」 と刻まれている。
海野宿の西端に海野宿行灯と東端にもあった海野宿解説が建っている。

阿弥陀堂 西海野一号橋 足穂神社 住吉宮
海野宿を出て300m程進んだところに阿弥陀堂がある。
一見して御堂には見えないが、御堂前には手水鉢、石灯籠があり、御堂内には金色の阿弥陀如来坐像が安置されている。
阿弥陀堂の直ぐ先で成沢川に架かる西海野一号橋を渡って行く。
橋を渡ると車道より左に一段下がったところに歩道があり、車の往来を気にせず歩くことが出来る。
西海野一号橋を渡って程なく右手の路地を北に入り、しなの鉄道を潜ると正面に足穂神社がある。
足穂神社の創建年代は不詳であるが、参道入り口には馬頭観音があり、石段を上った境内には赤い両部鳥居、天保8年(1837)の常夜燈、嘉永6年(1853)の手水鉢などがある。
街道に戻って進むと右手に住吉宮がある。
住吉宮の創建年代は不詳であるが、参道口に殿石・姫石と標柱のある陰陽石があり、境内には宝永5年(1708)の御神燈、石祠などがある。

道祖神 仁王堂 稲荷社 大屋神社
街道が千曲川に近づいた左手に道祖神が建っている。 道祖神の先で左に入る旧道があり、突当り左手に仁王堂がある。
ここにある仁王尊は、慶安年間(1648-51)に書かれた 「田畑検知帳」 にその存在が記録されている。寛保2年(1742)の戌の満水(大洪水)により、仁王尊の一体は千曲川に転落流失した。その後は度重なる水害のため観音堂や阿弥陀堂の復元はなく仁王尊のみが大屋地区北国街道沿いに安置され、水害犠牲者の供養と河川鎮護の守神として尊崇されてきた。
仁王堂を過ぎると程なく左手の畑の前に2基の稲荷社の石祠が2基建っている。
石祠には狛狐がいくつか置かれている。
街道を横切る大屋駅から延びる道路を渡ると左手に大屋神社がある。
大屋神社は、天保13年(1842)に神明宮と熊野大権現の本殿が二社並びに建てられていたことから熊野社と呼ばれていたが、明治11年(1878)に氏子が住む大屋を冠して大屋神社と称するようになった。社殿には、日露戦争の勝利の立役者だった伊藤祐享、東郷平八郎、上村彦之丞の3人の将軍が大屋字外河原の千曲川簗漁場に見えた時に乗った舟が保存されている。

大屋駅 道祖神 旧道口 岩下の一里塚跡
大屋神社から北に入るとしなの鉄道大屋駅がある。
駅前の木の下には 「大屋停車場碑」 が建っている。官設鉄道信越線は、明治21年(1888)年12月に上田-軽井沢間が開通し、この時に開業した駅は田中・小諸・御代田・軽井沢の各駅であった。大屋駅は、地元請願駅として明治29年(1896)1月に開業した。
大屋神社の先で広い道と合流すると右手に台座に乗った2基の道祖神がある。 街道を進んで瀬沢川に架かる瀬沢橋を渡って行くと左に入る旧道口がある。 旧道に入って街道が右にカーブするところに建つ岩下自治会長宅の隣家の角に岩下の一里塚跡標札が建っている。
平成25年(2013)に岩下ふるさと文化保存会が旧北国街道を偲んで建てたものである。

街道家並み 天満宮 福聚山無量庵 岩下清水
岩下の集落には連子格子の家や梲の上がった家などが点在している。 街道右手に見える大ケヤキを頼りに路地を入ると天満宮がある。
天満宮の創建年代は不詳であるが、岩下郷は鎌倉時代の豪族・海野氏の領地内として神川を境にし、当時の信仰として天神社が勧請され菅原道真公をお祀りしている。
社殿横の二本の大ケヤキは、推定樹齢千数百年と云われ、長野県でも二番目の大木として上田市の天然記念物に指定されている。
天満宮を出て向かいの路地を左に入って行くと福聚山無量庵がある。
無量庵は、元和元年(1615)の頃に龍洞院の支配下にあり、寛文11年(1671)に釣月和尚が開山したという。本尊は准阺観世音菩薩坐像で女神の性質を持っており厄除け観音として知られ、主に百日咳・疱瘡・風邪等にご利益があると云われている。境内には、庚申塔、勢至菩薩碑、寒念仏供養塔などがある。
無量庵の前を更に千曲川方向に下ると岩下清水がある。
ここには2か所の清水が湧き出ており、かつては飲み水や洗い物など生活用水として使用されていた。

明治天皇岩下御小休所跡 伊波保神社 太鼓岩 旧道口
街道に戻ると直ぐ左手に明治天皇岩下御小休所跡がある。
明治天皇は、明治11年(1878)北陸東海両道御巡幸の際に岩下村の尾崎惣作阺で御小休された。また仁和寺宮嘉彰親王が、明治元年会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍し、会津藩降伏後、高田を経て東京へ向かう途中、岩下村の尾崎儀兵衛宅を御小休所とした。
街道を進むと岩下公民館の隣に伊波保(いわほ)神社がある。
伊波保神社の創建年代は不詳であるが、かつては岩下地区の東端の岩穂地籍にあったが、元和3年(1617)の水害のため現在地に遷座された。
境内には、明和3年(1617)の石灯籠、明治9年(1876)の常夜燈、文久2年(1862)の覚明の像などがある。
岩下公民館の直ぐ先の千曲川の中に太鼓岩がある。
この岩は対岸の小牧山の火山活動があった頃の噴火物が残ったと云われている。この岩に水流が激しく当たりドーンと響くことからこの名が付いたとも言われている。昭和5年(1930)には、右岸と太鼓岩の間に吊り橋を架けたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風の折り、災害を避けるために切り落とされた。
太鼓岩を見て進むと直ぐ先でガードレールの延長線上に延びる小路が神川橋まで続いている。
入口には、旧北国街道の標識が建っており、畑の傍を幅1m~2m程の草道が残っている。

神川橋 馬頭観世音 蚕影神社 水天宮・道祖神
旧道の突当りに神川が流れ、そこに架かる神川橋を渡って行く。
神川は、天正13年(1585)8月2日、 籠城史に名高い、第一次上田合戦(神川合戦)が開始されたことで知られている。一説には、真田軍が神川の上流を塞き止めて水を溜めておき、一気に押し流したとも云われている。
橋の右手の道路上には道祖神が建っている。
神川橋を渡った先のY字路中央に間頭観世音が建っている。
この馬頭観世音碑は、文政元年(1818)加州(加賀の国)飛脚中により建立されたもので、当時、加賀と江戸との間に飛脚を業とする人が多く、その加賀飛脚仲間が旅や馬の安全を祈願、馬の供養のために建てたものと言われている。傍らには、道祖神と神川村道路元標が建っている。
馬頭観世音の裏手にある上田市立神川小学校の脇を抜けると、しなの鉄道線の近くに蚕影神社がある。
ここ神川は、養蚕の栄えた地域であった。
神社の手前には馬頭観世音が建ち、境内には嘉永4年(1851)の御神燈、津島牛頭天王と刻まれた石灯籠、境内社などがある。
街道を進むと千曲川堤防上に水天宮の石祠と道祖神が建っている。

三体地蔵菩薩 下堀地区 愛宕神社 柳沢家
北陸新幹線鉄橋の近くまで進むと堤防沿いの花壇の横に三体地蔵菩薩がある。
この隣には水神碑があり、街道の向かいには北陸新幹線下掘地区開業記念碑が建っている。
北陸新幹線下堀地区開業記念碑のところから右に入る旧道があり、下堀地区の集落を通っている。
街道を進むと右手に愛宕神社がある。
愛宕社の創建年代は不詳であるが、境内には大正2年(1913)の幟立て、石祠などがある。
愛宕神社の先の右手に平城のような造りの大きな屋敷がある。
この屋敷は、上田宿本陣を務めた柳沢家で明治期に上田宿海野町から移転したという。
本陣門は、重厚な四脚門である。

題目碑 山辺糀店 道標 道標
国分跨線橋を渡って上堀交差点を越えると左手に慶應2年(1866)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。 題目碑の先に万延元年(1860)頃創業の山辺糀店がある。
山辺糀店は、創業時 「掘糀屋」 の屋号で糀・味噌の製造を営んでいた。
現在もその伝統を継承して糀造り・味噌造りを行っている。
山辺糀店の先の最初の右手路地に小さな道標が建ってる。
道標には、「信州国分寺道」 と刻まれている。国分寺は、ここから5~600m程東南に進んだところにある。
前の道標から100m程先の右手路地角に昭和2年(1927)の道標が建っている。
道標には、「信濃国分寺道 上堀停留所入口 国分寺ヲ経テ上澤黒坪二至ル」 と刻まれている。

道祖神 井戸 道祖神 科野大宮社
街道を進んで国道141号線を渡り、小川を越えた踏入地区の中央に当たる変則十字路の右手に道祖神が建っている。 道祖神の先の右手に井戸がある。
この井戸は、旧北国街道踏入村の生活用水や旅人の喉を潤したものである。
昔からこの井戸は毎年7月に井戸替えをし、8月には砂文字天之川伝統行事が行われている。
井戸の先の右手に建つ梲の上がった連子格子の家を過ぎると左手の路地先に道祖神が建っている。 街道を進んで突き当たりを右折すると右手に信州大学繊維学部があり、その前を直角に左折して行くと突き当たりに科野大宮社がある。
科野大宮社は、第10代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命による創建と云われ、真田氏による上田城築城以来、城の鎮守と定められ、藩費をもって修繕したという。
境内には、城中稲荷社、神明社、子安社などの境内社がある。

毘沙門堂跡 日輪寺 宗吽寺 願行寺
科野大宮社を過ぎると右手に毘沙門堂跡がある。
活文禅師は、文政12年(1829)岩門の大日堂から毘沙門堂へ移り、寺子屋をつづけた。活文禅師の著名な門弟に佐久間象山・高井鴻山・赤松小三郎らがいる。
境内には、延命地蔵尊、鳳山禅師追福之碑、龍洞鳳山禅師碑文などがある。
毘沙門堂の先で突当りを右折すると右手に曹洞宗の天照山日輪寺がある。
日輪寺は、天文14年(1545)用山光受を開山にして真田家の先祖である海野小太郎幸義が開基した.。寺の名前は、海野小太郎幸義の法名の日輪寺殿に由来している。
境内には、観世音菩薩を祀る観音堂、勢至菩薩を祀る勢至堂、子安観音を祀る観音堂などがある。
日輪寺の隣に真言宗智山派の海堂山宗吽寺がある。
宗吽寺は、当初、上田城大手の堀際にあったが、中興開山慶英法印の時に現在の地に移したという。元和8年(1622)上田藩主として入部した仙石氏、後の松平氏の時代を通じて祈願所となった。
境内には、不動堂、弘法堂、切妻の家型で前面と両側の三面に二体ずつの地蔵菩薩を刻んだ石幢がある。
宗吽寺の先の横町交差点を右に100m程進むと右手に浄土宗の功徳山願行寺がある。
願行寺の創建年代は不詳であるが、往古千曲川太鼓淵から一光三尊阿弥陀如来像が見つかり、この如来のために海野郷岩下(現東御市本海野字岩下)に一寺を建立したのが始まりと云われ、その後、幾多の変遷を経て元和7年(1621)に真田信之によって現在地に移転した。

海野町 開運出世稲荷神社 高市神社 本陣・問屋跡
街道に戻って横町交差点を左折すると海野町である。
海野町は、上田城築城の際に真田氏ゆかりの本海野(東御市の海野宿)から商人などを移住させて出来た町で、上田城下最初の町人町であった。
街道脇には、真田十勇士像や町の解説碑などがある。
横町交差点を左折して最初の左手路地を入ると右手に小さな社殿の開運出世稲荷神社がある。 街道に戻ると右手に高市神社がある。
高市神社は、天正11年(1583)真田幸村(信繁)の父、昌幸公が上田築城の折、城下町の元町として海野町を作り、又 商いの守護神として請願されたのが始まりと伝えられている。
祭神は恵比寿神と大黒天で、境内には、真田昌幸・幸村雌伏の地・高野山の麓九度山より移築した運の石がある。
高市神社の斜向かいにある衣料品店オオムラの前に本陣・問屋跡碑がある。
上田宿の本陣は、海野町の柳沢家が務め、問屋も兼ねており、屋敷は広大なものであった。
客殿の門の東側には、高札場も設けられていた。

明治天皇行在所跡碑 真田三代・真田十勇士 上田城址
街道は中央2丁目交差点を右折して行くが、そのまま真っ直ぐ進むと突当りの上田商工会議所会館の前に明治天皇行在所跡碑が建っている。
明治11年(1878)ここに町民の学校として上田の明治文化を象徴する洋館風建築3階建の上田学校が建設され、天皇の宿泊所にも利用された。
明治天皇行在所跡碑から西にある上田城までの道には、真田三代・真田十勇士の解説板が建ち並んでいる。 上田城は天正11年(1583)真田昌幸によって築かれた。
当時の千曲川分流尼ヶ淵に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り囲まれた天然の要害に拠っている。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に際し、豊臣方に属した昌幸・幸村(信繁)父子は、この城に立て籠り徳川秀忠率いる二万五千の西上を阻んで、関ヶ原の戦いに不参させたことは、上田城を一躍天下の名城と言わしめるに至った。

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