名勝横吹解説
笄の渡し解説
笄の渡し跡と対岸の岩井堂山
時は戦国、室町末期。 村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22年(1553)4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れ別れに城を後にしたのでした。 義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。 千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。 奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。 村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」 と呼ぶようになったということです。
往昔、苅屋原は、葛尾山の半腹にありし村上氏の根古屋なり。 慶長16年北国往還開けり。近郷の里人、町割をなし集落を形成す。坂木村の枝郷なり。 此の邑南端より榎坂を登らば横吹の山道に出ず。天下随一の難所、横吹八丁なり。
箱岩を通り、小沢、大沢を渉り、尾崎を回らばつるし佛、翫月亭を過ぐれば坂木の宿、此の阪路高崖の地なるをもって常に風勢はげし。 厳冬の寒威肌膚を裂くが如し。然れども盛夏の候は納涼に妙なり。
眼下に千曲の川北に流る。榎の老樹水に枝を垂れ其の風光頗る佳なり。樹下に数戸の茶しあり行人遊客の休憩に便す。 仲秋の辰、姨捨山の雅客先ず此の所にて月を迎うと云う。冠着宮の遥拝所なり。多くの俳人またこの地を訪ねる。
いまは去る貞享のむかし芭蕉翁、坂木に宿し十六夜の月を賞せり。
いさよひも またさらしなの郡哉
乾方、灯しの松、裾無川、雲井の橋、舟繋石、弘法の八の字、笄の渡、比丘尼石は、苅屋原の七不思議なり 文明開化し、馬車、人力車の通行するに及び旧来の街道狭隘にしてはなはだ交通に危険なり。
明治9年村人協議し、横吹山の麓千曲川縁りの険しき崖を崩し、岩を砕き、巨石を畳んで深水を鎮め、架橋を設け、横吹新道を開けり。 此の道の一部いまなお国道18号線として供用せり。時は流れ世は移りて横吹の沿革、世人の忘却せるところなれど今次、建設省国道改築事業をもって修景工事成る。
本町また附帯の施設整備す。以ってこの勝地再び往来の人々の便に供するところなり。
道祖神(左)、享和元年(1801)の馬頭観世音碑(右)
よこ吹や 猪首に着なす 蒲頭巾
小林一茶句碑
笄橋完成記念碑
横吹新道之碑
享和元年(1801)の二夜庵(高桑蘭更)句碑
安永3年(1774)の芭蕉句碑
芭蕉翁 (裏面)
左右裏側面に文字が刻まれ、高桑の文字が確認できる。
いさよひも またさらしなの 郡哉
よこふきや 駒もいななく 雪あらし