江戸から明治にかけて、人々の往来が自由になり、商売や仕事で上田や長野方面へ行き来する人も増えてきました。 しかし、坂木から戸倉へ行くための 「横吹坂」 はとても険しく、人々は大変困っていました。 そこで1876(明治9)年4月、坂木村は長野県令 (現在の知事に相当する職) に次のような願い書を出しました。 北国街道の横吹坂は、高い山の中腹を通っている険しい道で、山の下は千曲川が突き当たって急な流れとなっている。 風雨や雪の日には人や馬がたびたび怪我をしたり、中には落ちて命を落とす人もいて大変困っている。 そこで荷車や人力車なども通行できる平らな道を、横吹坂下の千曲川の川縁につくりたい。 どうかみんなのためになる新しい道づくりを許可していただきたい。 この願いは同年8月に 「今ある横吹の坂は壊さずにいつでも通れるようにしておくなら、新しい道をつくってもよい。」 と国から許可が出ました。 新しい道路づくりには坂木村の人々が交代で参加し、岩を落としたり石を運んだりしました。 山を崩すための火薬が不足していたため、硬い岩にくさびを打ち込み、水をしみ込ませて割るなど、苦労が絶えませんでした。 洪水で割り落とした大石や泊まり用の小屋などが流されるなどの災害も乗り越え、1877(明治10)年に横吹新道は完成しました。 最初の6年間は有料道路として一人7厘、馬一疋1銭4厘でしたが、これによって馬車や牛車、人力車なども通行できるようになり、村の発展につながりました。

国道18号線の歩道を進む

横吹新道づくり解説

横吹新道の設計図