今より800年前、鎌倉時代当時の仏教は 「貴族仏教」 とも言われており、権力者や貴族たちのものでありました。ところが、法然上人は未法の時代にあって、すべての人は平等であり、「南無阿弥陀仏」 に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた女性たちに広く受け入れられ、「念仏仏教」 が大変な勢いで広まっていきました。
 法然上人(後に土佐の国に流罪)の説く専修念仏が広まるにつれ、古くからある仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱す者と決めつけ、元久元年(1204)「専修念仏停止」 を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。
 そのような事態の中でも、住蓮房・安楽房は別時念仏会を開きました。両上人を修する浄土礼讃声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。その中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫・鈴虫姫がおられました。両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛を受けた。折も折、紀州熊野へ参詣の間に、両姫の決死の出家の願いにより住蓮房は松虫姫(19歳)を、安楽房は鈴虫姫(17歳)をそれぞれ剃髪、出家得度させた。
 このことを知った上皇は激怒し、この出来事を一つの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。建永2年(1207)住蓮房は近江の国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)、安楽房は京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処された。
 住蓮房に朝子という母公がおられ、我が子が捕らえられた悲しみで盲目となられ、いよいよ死罪に処せられる前に、一目逢いたいものと馬淵を目指して、中山道を急がれましたが、途中で住蓮房上人がすでに首を打たれたと聞き、最早この世に生きながらえる望みなしと思い、当地焔魔堂町の池(尼ケ池)に身を投げてお亡くなりになりました。
 母公の法名を 「住然」 と言い、当家の屋敷内に母公の墓があり、また住蓮房の首を打った刀を所蔵しておりましたが、延宝5年(1677)大宝神社(栗東市)に奉納してあります。縁あって、代々墳墓をお守りしております。

住蓮房母公説明

住蓮房母公墓碑