黒門の由来
草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。
宿場町の入口には、一般に見付と呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。
草津宿では、東海道の入口に 「坂口見付」、中山道の入口に 「札の辻見付」(追分見付)」 と呼ばれた見付がありました。
一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見付の石垣の上に建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため、上記のとおり矢倉村境に移築されるに至ったようです。
ただ、この黒門の規模や形状については、詳細な記述がなく不明と言わざるを得ませんが、見付と同様な、宿場町の保安的機能を有した門であったと考えられます。
また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。
矢倉橋
矢倉橋親柱
草津川