文治元年(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(8歳)は入水。
 平氏の総大将宗盛・長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて宗盛の首を刎ね、本地に於いて清宗の首を刎ねる。
 清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向かい静かに手を合わせ、掘弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗ときに17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
 平清盛は義経3歳の時、あまりにも幼いということで命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、また義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて31歳で殺される。

 夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常と云われるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。

 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘、後白河上皇の寵愛をうけ、3歳で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と供に生虜となる。
 「吾妻鏡」 に 「至野路口以堀弥太郎景光、梟前右金吾清宗」 とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
 (遠藤権兵衛家当主遠藤勉)

清宗塚説明

平清宗説明

庭の奥にある覆屋の稲荷社

庭の奥にある覆屋の稲荷社

庭先にある供養塔

平清宗の供養塔