芭蕉句碑
この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄3年(1690)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣(へそ)村の立場に足を留め、旅の余韻と惜春の情を託して詠まれた句と云われています。
「へそむらのまだ麦青し春のくれ」
句意は、「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣(へそ)村あたりの麦はまだ青い。種蒔きが遅れたのか、寒かったのだろうか。もう間もなく春も暮れようとしているのに・・・」
というものです。
芭蕉の句碑は、滋賀県内に93本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。
双欅造り本瓦葺き南向きで左右に築地付の門である。享保8年(1718)京都の宝鏡寺(宝鏡寺宮百々御所比丘尼御所)第111代後西天皇の理豊皇女から徳厳親王の病気が当神社の祈祷にて全快されたお礼に寄進建立され徳厳親王の書による
「今宮応天大神宮」 の扁額も寄進された。
享保3年(1718)の棟札には 「屋根方棟梁京河原町竹屋町上ル住人檜皮屋壱兵衛」 の次に 「北平勝手けらば葺き葺手大郎衛門(中略)南平落葺き惣兵衛」
など6人の職人名が記してある。
文久3年(1863)の棟札には 「大工棟梁綣村住人西田久兵衛」 「瓦師同国野洲郡大林村住人長谷川兵輔」 と記されている。
享保3年の棟札から建立時は檜皮葺きであったが、享保21年(1736)、延享元年(1744)の年号入り鬼瓦が現存することから、この頃に瓦葺きになった模様。1888年、1923年、1954年、1984年の棟札も現存。宮中からの寄進であるため築地塀に5本の白い線が横に入っている。
当神社は、大宝元年(701)疫病流行の時、小平井村信濃堂(しなんと)の降臨され、村人たちが霊仙寺村を経由して綣(へそ)村の意布伎神社(現在の追来神社)境内に鎮座されることにより疫病が鎮まったと伝えられている。
このとき社名を大宝天王宮と称し、正一位とされた。広く50余郷信仰の総社と称され、翌年より健康を授かろうと例大祭を4月初子(はつね)の日と定めた(現在5月4日)。同年に今宮応天大神宮の神号勅定。貞観年中(858-67)より天台宗融合の両部神道となる。
永享5年(1433)将軍足利家が上鈎村に陣を置き天下可抽を祈願し、311石の地頭を寄進の後に、近江守護職佐々木氏に境内整備、修理等を命じ、徳川将軍家により当地を知行地とした渡辺氏なども社殿修理などの継承を怠らなかった。
神主職は、この地方の名族小槻氏の世襲であったが、万治元年(1659)より片岡氏(足助氏)に委ねられた。元禄6年(1693)より別当神応院と称する社僧が運営にあたった。
境内は、正徳3年(1713)の資料から本殿を中心に境内社が34社、建物は神宮寺の様相にて、三重塔大日・薬師堂・鐘楼堂等々が建ち並び当時の荘厳さをうかがい知ることができる。中山道向の大宝山佛眼寺は神宮寺となっていた。慶応4年(1863)神仏分離令により仏教色を一掃し、社名を大宝神社と改称、現在に至る。
芭蕉句碑の由来
大宝神社由来
四脚門両築地付由緒
宝暦8年(1758)の常夜燈
拝殿内部
拝殿
総欅造りで享保3年(1718)後西天皇の皇女から寄進されたもの
四脚門
手水舎
神馬
常夜燈が並ぶ参道
追来神社 (多々美彦命)
八幡・蛭子神社 大国主神社
稲田神社 (稲田姫命)
本殿全景
大宝神社本殿
神門 (中門)
へそむらの 麦まだ青し 春の暮
神武天皇遥拝所碑
御神木のクスノキ
素盞鳴尊