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日光街道   (日本橋~千住)


平成28年7月3日(日) ☀|☁  日本橋~千住  9.1㎞
梅雨に入って不安定な天気が続いていたが、7月になって梅雨明けを思わせる天気となったので、急遽、日光街道を始めることとした。
日本橋は、甲州街道、中山道、東海道に続いて4回目のスタートとなる。平日の朝は通勤の車などで混雑するが、日曜日ということもあって車の往来は少なく、人通りは殆どない。市街地は道路が入り組んでおり、意外と時間が掛かる。

日本橋 日本橋北詰 福徳神社 紙商小津碑
昭和38年に首都高速道路が出来て久しいが、いつ見ても圧迫感ある光景である。
橋の手前右手に双十郎河岸碑があり、左側に高札場のモニュメント、渡り詰め右手には日本橋魚市場発祥の地碑・乙姫像、そして左手に日本道路元標レプリカと里程標がある。
日曜日の早朝は車の往来も人通りも無い。
街道左手には、重厚な造りの三越、三井住友信託銀行のビルが並んでいる。
三井記念美術館の向かいの路地を右に入ると福徳神社がある。
福徳神社の創祀は不詳であるが、貞観年間(清和天皇859~876)には既に鎮座していたと云われ、武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名を取って福徳神社となった。
室町三丁目南交差点を右折し、首都高速道路ガードを越えた左手に紙商小津碑が建っている。
ここは伊勢商人・小津清左衛門長弘が、承応2年(1653)に紙商小津を創業した場所である。
現在は、小津産業株式会社となって各地の和紙を取り扱うほか、業務用不織布の有力な卸商である。

寶田恵比寿神社 旧日光街道道標 椙森神社 身延別院
小津産業㈱の先の一本目路地を左に入ると寶田恵比寿神社がある。
寶田恵比寿神社の創建年代は不詳であるが、徳川家康江戸入府以前は寶田村の鎮守だったと云われている。江戸城拡張により村の移転を命ぜられ、現大伝馬町へ遷座した。御神体の恵比寿神は運慶作と伝えられ、日本橋七福神の恵比寿神となっている。
街道に戻ると直ぐ右手の駐車場脇に昭和50年(1983)に大伝馬町会が建てた 「旧日光街道本通り」 道標がある。 旧日光街道道標の先の右手路地を右に入って行くと椙森神社がある。
椙森神社は、平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所と云われている。江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、江戸庶民の信仰を集め、富籤が行われていたと云われている。
椙森神社から街道に戻り、左折(北上)して江戸通り(国道6号線)を渡ったところに身延別院がある。
身延別院は、明治16年(1883)に創建された日蓮宗の寺院である。ここ小伝馬町一帯は、江戸時代の伝馬町牢屋の跡地であり、厳しい拷問や劣悪な環境で多くの人々が獄死したことから、それらの獄死亡霊を慰めるために建立された。

十思公園 三縁史跡碑 大伝馬本町通り 浅草橋
身延別院の向かいに十思公園がある。
ここは伝馬町牢屋敷跡であり、一角には、松陰先生終焉の地碑、吉田松陰辞世の歌碑、江戸で最初に設置された石町時の鐘、長唄三味線方の名跡・杵屋勝三郎歴代記念碑などがある。
江戸通りの小伝馬町交差点に三縁史跡碑が建っている。
碑には、表面に 「都重宝指定石町宝永時鐘・江戸傳馬町牢屋敷跡・吉田松陰先生終焉之地」 と刻まれ、裏面にそれぞれの解説が刻まれている。
三菱東京UFJ銀行脇から大伝馬町本通りの街道に戻ると、正面中央に東京スカイツリーが見える。 大伝馬町本通りを進んで、その先で呉服商が軒を並べる横山町大通りを過ぎ、突当りを左折すると神田川に架かる浅草橋がある。
ここ神田川に初めて橋が架けられたのは寛永13年(1636)のことであり、浅草御門前にあったことから、浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか 「浅草橋」 になった。
橋の上下流には、屋形船が係留されており、渡り詰め左手に浅草御門の浅草見附跡がある。

篠塚稲荷神社 銀杏岡八幡神社 須賀神社 天文台跡
浅草橋の先一本目路地を右に入ると篠塚稲荷神社がある。
篠塚稲荷神社の創建年代は不詳であるが、正平年間(1346-70)新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が、この地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」 と称されるようになったという。
街道に戻ってJR総武線のガードをくぐると、左手一本目の路地先に銀杏岡八幡神社がある。銀杏岡八幡神社の創建年代は不詳であるが、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だったこの地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、銀杏が繁茂していたため、神恩に感謝し大刀一振を捧げ、康平5年(1062)八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられている。 柳橋二丁目交差点を越えると直ぐ左手に須賀神社がある。
須賀神社の創建年代は不詳であるが、推古天皇9年(601)武蔵国豊島郡に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王の祠を建てたのが始まりと云われている。
境内には、延享元年(1744)の狛犬一対が安置されている。
蔵前一丁目交差点の左角に天文台跡解説があり、「この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。(中略) ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。(以下略)」 と記されている。

浅草蔵前 鳥越神社 寿松院無量寺 蔵前神社
天文台跡解説の隣に浅草蔵前の町名由来がある。
蔵前という町名が初めて付けられたのは元和7年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するために造られた倉庫で浅草、大坂、京都二条の三か所にあった。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。
蔵前一丁目交差点を左に進むと右手に鳥越神社がある。
鳥越神社は、白雉2年(651)日本武尊が東国平定の途中、当時白鳥村といった此の地に滞在した後、その威徳を偲んだ村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とすると伝えられている。
境内には、倉稲魂神・大黒天神・恵比寿神・菅原道真を祀った福寿神社がある。
鳥越神社の裏の道を街道方向に戻る途中に浄土宗の不老山寿松院無量寺がある。
寿松院無量寺は、小田原寿松院住職の善誉上人が、鍛冶橋御門に寺地を拝領して文禄3年(1594)に創建し、その後寛文9年(1669)に此の地へ移転したという。
境内には、地蔵菩薩、石灯籠、宝篋印塔などがある。
街道に戻って蔵前三丁目交差点を過ぎると一本左手の路地に蔵前神社がある。
蔵前神社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、江戸城鬼門除の守護神ならびに将軍家祈願所の一社として尊崇せられ御朱印社領二百石を寄進せられた。
境内には、古典落語「元犬」の像、歌川国安の力持の錦絵がある。

榧(かや)寺 諏訪神社 駒形どぜう 黒船神社
蔵前神社から春日通り(都道453号線)に出ると左手に浄土宗の榧(かや)寺がある。
榧寺は、天正年間(1573-91)に草庵として創始され、慶長4年(1599)に増上寺中興開山の源誉上人が池中山正覚寺として開山したといわれている。境内には、江戸時代の国学者で著名な俳諧師である石川雅望の墓、娘義太夫の初代竹本綾之助之碑、高村光雲作の厄除け地蔵尊、義母の折檻で死んだ「お初」の供養のため建立したお初地蔵などがある。
街道に戻って駒形一丁目交差点を過ぎると左手に諏訪神社がある。
諏訪神社の創始は不詳であるが、由来書によると後冷泉天皇の御代(1045-68)とも、承久の乱(1221)の後とも伝えられ、諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し天正年間以前には神主が数代にわたって奉仕して来たと云われる。
諏訪神社の先の交差点角に享和元年(1801)創業の駒形どぜうがある。
初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開いたのが始まりと云う。
店の前には、浅草育ちの久保田万太郎の句碑 「御輿まつまの どぜう汁 すすりけり」 がある。
駒形どぜうの前を左折して行くと右手に黒船神社がある。
黒船神社は、平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営し、黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940)に墨田川の浜の石上に社を勧請したという。その後、享保17年(1732)に火災で焼失し、現在地に移ったという。
境内には、嘉永7年(1854)の迫力ある狛犬一対、安永2年(1773)の石灯籠などがある。

並木通り 雷門 浅草寺 姥ヶ池跡
駒形橋西詰交差点から北へ延びる並木通りとなり、突当りに浅草寺がある。 並木通りの突当りに雷門がある。
雷門は、切妻造り八脚門で浅草寺の護法善神である風神・雷神が安置されている。元々雷門はこの二神の名前から 「風雷神門(ふうらいじんもん)」 と呼ばれていたが、いつしか雷門とだけ呼ばれるようになった。雷門の裏側には、水をつかさどる龍神である天龍像・金龍像が安置されている。
街道は雷門を右折して吾妻橋交差点を隅田川に沿って北上して行くが、浅草寺境内を巡ってみた。
浅草寺は、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成
(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が隅田川で網にかかった5.5㎝の黄金像を安置したのが起源と云われる。建造物は関東大震災や空襲によって殆ど焼失したため、現在の建物の多くは戦後再建されたものである。
街道に戻って東参道交差点を左に入ると花川戸公園に姥ヶ池跡がある。
ここには伝説があり、昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死んだ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人が姥ヶ池と呼んだという。
公園には、助六歌碑、履物問屋街発祥碑などがある

本龍院(待乳山聖天) 慶養寺 本龍寺 今戸神社
姥ヶ池を過ぎて言問橋西五叉路を真北に進むと最初の信号交差点の右手に待乳山聖天がある。待乳山は推古天皇3年(595)、一夜にして出現した霊山で、その時、金龍が舞い降り、この山を守護したと伝えられている。それより6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われたとき、十一面観世音菩薩が大聖歓喜天とともに、この山に降臨されて 苦しむ民を救ったと云われている。境内には、トーキー渡来碑、歓喜地蔵尊、金龍山大聖歓喜廟碑などがある 浅草七丁目信号交差点を右に入って山谷掘公園を横切ると曹洞宗の霊亀山慶養寺がある。慶養寺は、龍門寺十二世良寮和尚が開山となり、寛永2年(1625)浅草蔵前に創建し、その後、此の地へ移転したという。
境内には、江戸俳壇談林派七世の谷素外の墓、青面金剛の庚申塔、花地蔵などがある。
慶養寺の北隣に真宗大谷派の臨川山本龍寺がある。
本龍寺は、元和2年(1616)京都東本願寺の末寺として龍賢によって開山開基されたという。
境内には、芸子花井お梅に刺殺された八杉峰吉の墓、幕末から明治にかけての浮世絵師豊原国周の辞世句 「世の中の人の似顔もあきたれば 閻魔や鬼の生きうつしせむ」 などがある
本龍寺から路地を挟んだ北隣に今戸神社がある。今戸神社は、後冷泉天皇康平6年(1063)源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、京都の石清水八幡を勧請したのが始まりと云われている。
人形の招き猫は、ここ今戸の地で16世紀から焼かれていた今戸焼が始まりと云われ、境内にはたくさんの猫像があり、また新選組の沖田総司終焉之地碑などがある。

吉野橋親柱 合力稲荷神社 熱田神社 春慶院
街道に戻ると吉野橋親柱が街道脇にある。
江戸初期に荒川の氾濫を防ぐために造られた山谷掘があったところで、現在は埋め立てられて山谷掘公園となっている。
江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで船が行き来し、界隈には船宿や料理屋などが建ち並んでいた。
吉野橋親柱から山谷堀公園を北に進むと合力稲荷神社がある。
縁起によると 「当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と奉斎す有り御祭神は生活の基をなす食を司る神として御神威を発揚され約四百数十年郷民の尊崇を集めている」 とある。
境内には、足持石と刻まれた卯之助の力石がある。
街道に戻って東浅草一丁目交差点を右折し、二本目の路地を左折すると熱田神社がある。熱田神社は、永禄年間(1558-69)に山谷村百姓一同が鳥越近郷の鎮守と奉斎して創建したが、その後、正保2年(1645)浅草鳥越町が成立したことに伴い移転して、此の地の鎮守となった。ここには大太刀 「陰陽丸」 が宝刀として保存されている。
境内には、豊川出世稲荷神社などの境内社がある。
東浅草交番前交差点を越えて一本目の路地を左に入ると浄土宗の月光山春慶院覚道寺がある。春慶院は、円蓮社団誉評林和尚が開山、霊巌寺檀那の本町伊勢屋太兵衛夫婦が開基となり創建したという。
境内には、福徳子育地蔵尊、すこやか地蔵尊、高尾太夫の墓がある。

駿馬塚 東禅寺 宝珠稲荷神社 泪橋
春慶院の一本北側の路地の民家の間に駿馬塚がある。駿馬塚は、平安時代の康平年間(1058-64)源義家が陸奥へ向かう際、此の地で愛馬 「青海原」 が絶命し、これを葬った所と伝えられている。
現存する塚は、明治8年造立の石碑や石造層塔の一部を遺すのみだが、天保7年(1836)刊行の 「江戸名所図会」 には挿絵を載せており、江戸時代後期には土饅頭型の塚や駿馬塚石碑が建っていたという。
駿馬塚の路地を西に進むと突当りに曹洞宗の洞雲山東禅寺がある。
東禅寺は、哲州和尚が開山、格州和尚が開基となり、寛永元年(1624)に創建したという。
境内には、江戸六地蔵の一つに数えられる宝永7年(1710)の銅造地蔵菩薩坐像、銀座木村屋総本店の開業者・木村安兵衛と妻ブナの夫婦像がある。
東浅草二丁目交差点を越えて右手のホテル寿陽の隣に宝珠稲荷神社がある。
宝珠稲荷神社の創建年代は不詳であるが、戦国大名北条早雲の五代目小田原城主北条氏直が、天正17年(1598)9月に初めて開かれた 「観音市」 を取締るために、町に後北条氏の虎朱印の 「禁制」 を出したが、その時、浅草町の鎮守として祀られていたという。
明治通りとの交差点が泪橋である。
泪橋は小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)に架かっていた橋で、東海道の立会川にかかる泪橋と同様、刑場へ向かう受刑者と家族との今生の別れの場であった。

延命寺 小塚原回向院 金福稲荷神社 西光寺
泪橋交差点を過ぎて、その先の貨物引込線を跨線橋で渡ると左手に浄土宗の豊国山延命寺がある。
ここは江戸時代の小塚原刑場の跡であり、刑場は間口60間(108m)、奥行30間余(54m)で、明治の初めに刑場が廃止されるまで、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。
延命寺の隣に小塚原回向院がある。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人などの埋葬も行われ、時には刑死者の遺体を用いた刀の試し切りや腑分けも行われた。
墓地には、井伊直弼による 「安政の大獄」 で処刑された吉田松陰・橋本佐内など有名人の墓や井伊直弼を殺害した水戸浪士の墓、鼠小僧次郎吉などの墓がある。
小塚原回向院の先のT字路交差点を過ぎると左手に金福稲荷神社がある。
金福稲荷神社は、文化7年(1810)江戸時代の史家林大学頭編纂による 「新編武蔵風土記稿」 によると、貞和5年(1349)足利時代に現西光寺境内地に 「金子福寿稲荷」 として創建されたものと記録されている。
金福稲荷神社の西側に浄土宗の真覚山菩提院西光寺がある。
西光寺は、芝増上寺の末寺で、賢誉長公が開山創建した。本尊の阿弥陀如来は、恵心僧都源信の作と伝わる4尺(約1.2m)の坐像である。病のあ者が、笹に刺した白団子を供えて祈願すれば霊験があるといわれ、「笹の団子の如来」 と呼ばれている。境内に貞和5年(1349)に鎮座したという金子福寿稲荷があったが、昭和53年に西光寺の東方に移転した。

日慶寺 素盞雄神社 誓願寺 熊野神社
南千住交差点で国道4号線に合流して直ぐ右手の路地を入ると日蓮宗の円心山日慶寺がある。天文年間(1532-55)日慶という比丘尼が谷中に日慶寺を草創し、その後、三代将軍家光に仕えた円心院日相尼が、宝永元年(1704)千住南字砂尾と呼ばれたこの地に、当時荒廃していた日慶寺の遺号を引継ぎ開創した。現存する鬼子母神像は、運慶作・家光感得といわれ、五代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝えられている。 南千住交差点の左手に素盞雄神社がある。
素盞雄神社は、石を神として尊崇する縁起を有している。延暦14年(795)荊石が微妙な光を放ち、翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は 「瑞光石」 と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀っている。
境内には、芭蕉が詠んだ 「行く春や鳥啼き魚の目は泪」 の矢立初めの句碑などがある。
素盞雄神社を過ぎると街道左手に浄土宗の豊徳山恵心院誓願寺がある。
誓願寺は、奈良時代末期の長保元年(999)に恵心僧都源信が天台宗寺院として創建したと伝えられている。
境内には、天正19年(1591)徳川家康が巡覧した折りに腰かけたという榎が二本あった。現在境内には、庚申塔2基、延宝9年(1681)の地蔵菩薩などがある。
誓願寺の北側の住宅地の中に熊野神社がある。
熊野神社は、源義家が永承5年(1050)に勧請したと伝えられている。
鳥居前に鉄柵の門があり、鍵がかけられているため境内に入れないが、右奥に社殿が見えている。
江戸時代、この辺りは材木商が建ち並んでおり、熊野神社には弘化2年(1845)材木商が寄進した手水鉢や常夜燈が残っている。

日枝神社 千住大橋 千住大橋公園 橋戸稲荷神社
熊野神社と国道4号線を挟んだ東側に日枝神社がある。
日枝神社は、正和5年(1316)に創建されたと伝えられ、江戸時代には千住宿中村町の鎮守社だったと云われている。
境内は鉄柵で囲まれており中に入れないが、
柵越しに見ると文化8年(1811)の手水石、覆屋の中の本殿などが確認できる。
隅田川に架かっている橋は千住大橋である。千住大橋は、文禄3年(1594)徳川家康が江戸に入って初めて架けた橋である。架橋当初は 「大橋」 と呼ばれていたが、万治2年(1659)に両国橋が架橋されてから 「千住大橋」 と呼ばれるようになった。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に架け替えられたブレースドリブ・タイドアーチ型の鉄橋で、歴史的な土木構造物である。 千住大橋の渡り詰めに千住大橋公園があり、奥の細道矢立初めの地碑が建っている。
公園奥から隅田川脇の橋詰テラスへ降りると堤防壁に与謝蕪村筆の 「奥の細道図屏風」 や初代広重の画、河番付、橋番付などが描かれている。
千住大橋公園の脇を西に入ると突当りに橋戸稲荷神社がある。
橋戸稲荷神社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請した延徳2年(1490)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
本殿は、延徳2年(1490)の土蔵造りで足立区の有形文化財に指定され、境内には、二つの小社が建っている。

日光街道入口 元やっちゃ場南詰 芭蕉句碑 街道案内・道標
足立市場前交差点Y字路右手の日光街道入口に千住宿奥の細道プチテラスがあり、矢立初の芭蕉像、大名行列が描かれた壁などがある。
この先を北上して行くと千住宿である。
街道を進むと左手の民家塀に 「此処は元やっちゃ場南詰」 と書かれた解説板がある。
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光街道)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと言われる。この先は川魚問屋、青物問屋などの屋号の掛かる家が続いている。
京成本線のガードをくぐって進んで行くと元青果物問屋 「谷清谷塚屋」 の隣にある千住歴史プチテラスの前に芭蕉句碑 「鮎の子のしら魚送る別哉」 が建っている。
千住歴史プチテラスの建物は、元千住四丁目の元地漉き紙問屋横山家にあった内蔵を平成5年に解体移築した土蔵である。
千住歴史プチテラスの斜向かいに街道案内があり、往時の問屋の配置を見ることが出来る。
この向かいの路地角には、日光道中と刻まれた道標が建っている。

元やっちゃ場北詰 源長寺 プチテラス 千住高札場跡
墨堤通り(都道461号線)との交差点(千住仲町交差点)の手前に 「此処は元やっちゃ場北詰」 と書かれた解説板がある。 千住仲町交差点を渡ると左手に浄土宗の稲荷山勝林院源長寺がある。
源長寺は、慶長3年(1598)此の地を開拓した石出掃部亮吉胤により、同15年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている.。境内には寺子屋の多坂梅里先生追悼碑、延命地蔵尊、庚申塔、馬頭観音などがある。
源長寺から程なく左手に掃部宿憩いのプチテラスがある。
掃部宿は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みが出来、千住宿に加宿された。名前の由来は、慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤に因んでいる。掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町である。
千住ほんちょう商店街に入る手前の信号十字路角に千住高札場跡がある。

千住宿問屋場・貫目改所跡 慈眼寺 不動院 千住ほんちょう商店街
千住ほんちょう商店街に入って直ぐ左手の東京芸能センターの前に千住宿問屋場・貫目改所跡がある。問屋場は元禄8年(1695)に設置され、人馬の手配をした。また寛保3年(1743)に貫目改所が設置され、荷物の重量検査が行われた。馬に積める荷物には重量制限があり、40貫目(150㎏)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていた。 東京芸能センターの角を左に入って行くと突当りに新義真言宗の千龍山妙智院慈眼寺がある。
慈眼寺は、正和3年(1314)行覚上人が関東巡錫の時に創建されたという。境内には、薬師如来堂、豊川稲荷社、日限地蔵尊、千住町消防組の碑、貞治6年(1367)の板碑、地蔵菩薩庚申塔などがある。
慈眼寺に隣接して新義真言宗の白幡山不動院薬師寺がある。
不動院は、元弘2年(1332)秀天上人の開山といわれ、もと吉祥院の末寺で、白幡八幡神社の別当と伝えられている。
境内には、川魚料理人が魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建てた遊女の無縁塔などがある。
千住ほんちょう商店街は、旧日光街道の宿場町で千住一丁目・二丁目の伝統と歴史のある町に位置しており、100店舗を超えるバラエティな品揃えを誇る店がある商店街である。

金蔵寺 勝専寺
千住ほんちょう商店街のゲートをくぐり右手のトポス北千住店を右に進むと左手に真言宗豊山派の氷川山地蔵院金蔵寺がある。
金蔵寺は、建武2年(1335)3月の創建といわれ、本尊は閻魔大王である。
境内には、大飢饉の餓死者の供養塔、千住宿の遊女の供養碑などがある。
街道に戻って進み左手一本目の路地を進むと突当りに浄土宗の三宮神山大鷲院勝専寺がある。
勝専寺は、「赤門寺」 という通称で親しまれ、文応元年(1260)勝専社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたという。
境内には、馬頭観音堂、寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像を安置する閻魔堂などがある。

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