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日光街道   (千住~下間久里)


平成28年7月19日(火) ☁|☀  千住~下間久里  21.2㎞
ゲリラ豪雨があったりと安定した天気が続かないため、まとまった日程では歩けないが今日は曇りの一日という予報だったので、前回の続きを歩くこととした。
前回は、寄り道が多すぎて街道距離は進まなかったが、今日は地図を見る限りでは目立った所が無いので単調な歩きになりそうである。この時期の陽射しはきついので、曇り空が一番であるが、気温は高いので冷凍のペットボトルなど暑さ対策をして出発である。

宿場町通り 千住宿本陣跡 千住本氷川神社 千住ほんちょう公園
北千住駅の西口に出て二つ目の信号を右に曲がると宿場町通りである。
江戸時代に江戸四宿と言われたのが、東海道品川宿・中山道板橋宿・甲州街道内藤新宿、そして日光街道千住宿である。
宿場通りに入って最初の左路地角に千住宿本陣跡がある。
ここには昭和49年(1974)に建てられた石碑があるのみである。
千住宿の本陣は、この1ヵ所だけで、敷地は361坪、建坪は120坪で間口9間半、奥行38間あったという。
千住宿本陣跡から程なく左手路地の突当りに千住本氷川神社がある。
千住本氷川神社は、徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に氷川神社として創建されたという。江戸初期に現在地に分社が建てられ、その後明治43年(1910)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、昭和45年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。
街道に戻ると右手に千住ほんちょう公園がある。
ここには、日光道中千住宿史跡・旧跡案内図、高札場解説などがある。

シャッター画 長円寺 氷川神社 横山家住宅
千住宿場町通りの個人商店のシャッターには、様々な街道絵が描かれている。 街道右手の旧商家横山家の手前を右に入ると突当りに新義真言宗の月松山照光院長円寺がある。
長円寺は、出羽湯殿山の行者雲海が寛永4年(1627)当地に庵を結び、後に賢俊が開山したという。境内には、魚藍観音・目やみ地蔵・宝篋印塔(享保17年)などがある。
長円寺に隣接して氷川神社がある。
氷川神社は、元禄4年(1692)に長円寺境内に建立され、その後、明治5年(1872)千住宿北組(4丁目)の村社に定められた。
境内には、稲荷神社、高正(北野)天満宮、猿田彦大神の境内社などがある。
街道に戻ると右手に横山家住宅がある。
横山家は伝馬屋敷の面影を残す商家で、屋号を 「松屋」 といい、江戸時代から戦前まで地漉紙問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年(1936)に改修されている。間口が9間、奥行が15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。

千住絵馬屋吉田家 道標 安養院 氷川神社
横山家住宅の向かいに千住絵馬屋の吉田家がある。
吉田家は、江戸中期より代々絵馬を始め地口行灯や凧などを描いて来た際物問屋である。江戸時代からの伝統を守り続けており、縁取りした経木に、胡粉と美しい色取りの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
千住絵馬屋吉田家の直ぐ先の信号十字路右手角に道標が建っている。
道標には、「東へ旧水戸佐倉道 北へ旧日光道中」 と刻まれている。
道標のある十字路を越えた左手の路地の突当りに真言宗豊山派の西林山安養院がある。
安養院は、もと千住元町にあり、鎌倉時代北条時頼が創建したと伝えられ、西林山長福寺と称した。慶長3年(1598)兵火の災にあい、現在地に移り真言宗西林山長福寺安養院と改めた。境内には、推定樹齢500年の黒松、観音堂、仲直し地蔵尊などがある。
安養寺を過ぎてY字路を左折すると堤防沿いの道を進み、国道4号線ガードをくぐって80m程進むと氷川神社がある。
この氷川神社は、永仁年間(1293-99)の創建といわれる。
境内には、旧千住新橋の親柱、天保14年(1843)の紙すき碑、千住川田浅間神社富士塚などがある。

千住新橋 真福寺 善立寺 不動堂
氷川神社から堤防に上ると荒川に架かる千住新橋が見える。
千住新橋は、明治44年から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正9年(1920)から4年の歳月をかけて完成し、その後、昭和32年(1957)に幅17mに拡張されたが、堤防の嵩上げ、橋桁の老朽化などにより架け替えが行われ、昭和58年(1983)に現在の橋が完成した。、
千住新橋の渡り詰め左手に真言宗豊山派の鷲谷山常楽院真福寺がある。
真福寺の創建年代は不詳であるが、賢清が開山となり創建したと云われる。
境内には、弘法大師像、青面金剛の庚申塔などがある。
真福寺の先の旧街道口に日蓮宗の大光山善立寺がある。
善立寺は、応仁2年(1468)の草創で三河安城から岡崎へ移転し、その後、天正19年(1591)に徳川家康の江戸入府に伴い開創され、昭和25年(1950)此の地へ移転している。
松平家との縁が深く、三つ葉葵が善立寺の寺紋となっている。
街道を進むと左手の路地角に不動堂がある。
御堂には不動明王が安置され、境内には地蔵菩薩と道標が建っている。
道標には、「子育八彦尊 是より二丁行く」 と刻まれている。八彦尊は、ここより西に行ったところにある明王院の八彦堂を指している。

佐竹稲荷神社 道標 梅島天満宮 国土安穏寺寺標
先に進むと街道左手の路地を入ったところに佐竹稲荷神社がある。
佐竹稲荷神社は、秋田佐竹藩下屋敷の屋敷神として創建され、「いぼ稲荷」 とも称され、願を掛けるといぼが取れると云われている。
佐竹稲荷神社を出ると右手の逆Y字路の中央に道標が建っている。道標には、「右旧日光道中 左東武鉄道旧線路跡」 と刻まれている。東武伊勢崎線の路線で最初に開業した区間は北千住-久喜間で明治32年(1899)であった。明治43年(1910)の台風を契機に荒川放水路の建設が始まり、鐘ヶ淵~北千住~西新井間の路線で路線変更が必要となったものである。 街道を進んで東武スカイツリーラインのガードをくぐると左手に梅島天満宮の社標があり、路地を進むと東武スカイツリーラインの高架脇に梅島天満宮がある。
梅島天満宮は、梅島公園(梅島小学校地)に神社を造営し、昭和23年(1948)9月筑紫太宰府天満宮の宮司西高辻信氏により分霊遷宮して、梅島町会の鎮守神とした神社である。
環七通りを越えて進むと島根二丁目信号交叉点左手に国土安穏寺の寺標が2基建っている。
寺標は安政2年(1855)、宝暦13年(1763)の南無妙法蓮華経題目碑であり、傍らに 「将軍家御成橋 御成道松並木跡」 の標柱が建っている。

国土安穏寺 鷲神社 稲荷神社 旧増田橋跡
国土安穏寺寺標の先を100m程入ると日蓮宗の天下長久山国土安穏寺がある。
国土安穏寺の創建は応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は千葉太郎満胤である。
当初は、長久山妙覚寺と称した。
将軍秀忠および家光の巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となった。
国土安穏寺を過ぎると左手に島根鷲神社社標があり、ここを50m程入ると鷲神社がある。
鷲神社は、日本武尊が海岸線の近くにあったこの場所に着いたので、浮島明神として祭祀し、文保2年(1318)武蔵国足立郡島根村の鎮守として中興され、大鷲神社と唱えたという。
境内には、享和2年(1802)の石鳥居、総重量35トンの御影石の長寿山灯籠、境内社の三峰神社などがある。
島根鷲神社前交差点の左角に稲荷神社がある。
小さな社の前には、一対の狛狐、庚申塔、水神宮碑が建っている。
街道を進むと増田橋交差点の右手に旧増田橋跡がある。
ここは千住宿と草加宿のほぼ中間にあたり、立場として賑わった。現在、橋は残っていないが、旧増田橋跡碑があり、「北へ旧日光道中 西へ旧赤山道」 と刻まれている。かつて増田橋南詰の旧日光街道から赤山道が分岐しており、ここから舎人を経て関東郡代伊那家の陣屋があった埼玉県川口市赤山へ通じていた。

直線の街道 稲荷神社 氷川神社 宝積院
東京スカイツリーラインの梅島駅手前から、この先の西保木間小学校まで約3.7㎞の直線の街道が続いている。
増田橋交叉点辺りがほぼ中間にあたる。
増田橋交差点を越えると直ぐ左手の民家の庭先に二つの鳥居が見え、大きい方が稲荷神社で、小さい方が古峰神社のようである。
幟立ても手水石もあり屋敷神社とは思えない。古くから鎮座する神社であろう。
直線の街道を進んで渕江小学校の手前路地を右に入ると氷川神社がある。
氷川神社の創建は不詳であるが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ、妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった。江戸時代の保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、伊興氷川社であったが、明治5年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。境内には、保木間稲荷神社、榛名神社の境内社がある。
氷川神社に隣接して真言宗豊山派の北斗山宝積院がある。
宝積院の創建は、慶長年間(1596-1614)以前と云われ、室町時代後期、淵江領を領地とする千葉一族が守り本尊の妙見菩薩を祀るために創建したと云われている。境内には、弘法大師像があり、山門脇に2基の札所碑が建っている。また門前の小路は、江戸時代から流山道と呼ばれた古道である。

旧道跡 法華寺 水神橋 浅間神社
西保木間小学校の手前で約4㎞続いた直線道も終了し、右に回り込んで行く。
回り込んだ道は、直ぐ先で直線道の延長線上に合流する。
直線道の延長線上に合流して直ぐ右手に日蓮宗の神寿山法華寺がある。
法華寺は、天保6年(1835)の創建で、安政3年(1856)の暴風雨、大津波で大破したが、元治元年(1864)に中興15世玉真院日琢が小塚原法華庵として再建した。
江戸時代には小塚原刑場の死刑囚の菩提を弔う寺であった。
毛長川橋前交差点で国道4号線の高架をくぐり、都道49号線に合流して左折すると水神橋がある。
水神橋を渡ると東京都足立区から埼玉県草加市に入って行く。
街道を進むと谷塚駅入口交差点の右手に浅間神社がある。
浅間神社の創建年代は不詳であるが、別当の善福寺寺伝によると、他の場所に祀られていたのを明暦年間(1655-57)此の地へ遷座したと伝えられている。
境内には、富士塚、富士登頂記念碑などの石碑、瀬崎天神社などがある。

地蔵堂 草加煎餅いけだ屋 草加宿入口 地蔵堂
吉町五丁目交差点の左手角に地蔵堂があり、火炙り地蔵尊が安置されている。
瀬崎村のさるお大尽の家に奉公に出た娘が、母親が大病で臥せっていることを知り、お暇を願い出たが許されず、この家が火事になれば帰れると思い放火してしまった。放火は火炙りの刑と定められていたため、娘はこの地で処刑されてしまった。これを不憫に思った村人が地蔵堂を建て供養したという。
吉町五丁目交差点を渡ると右手に草加煎餅のいけだ屋がある。
いけだ屋は、草加宿の街道沿い (現いけだ屋の旧日光街道を挟んで反対側) に 「おうめだんご」 という屋号で茶店を営んでいたという。
煎餅屋としての創業は、江戸末期の慶応元年(1865年)からとのことである。この先、街道沿いには草加せんべいの看板や幟が多く見られる。
街道を進むと左手に一方通行路出口があり、ここを斜めに進んで行くと草加宿である。
この一方通行路出口角に今様宗加宿碑が建っている。
傍らには、木柱の道標があり 「←草加市役所・地蔵堂 草加宿起点 草加宿舟形せんべいコース」 と刻まれている。
草加宿入口から150m程のところに草加市役所があり、その角に地蔵堂がある。
草加市役所は、幕末から明治にかけての豪商浅古家(屋号・大和屋)の跡地であり、地蔵堂は浅古家の屋敷にあったものである。
地蔵堂には、子育地蔵尊が安置されている。

観音寺 草加神社社標 八幡神社 藤城家住宅
草加市役所の直ぐ先右手に浄土宗の草加山回向院観音寺がある。
観音寺は、村民源右衛門が開基で、専誉順広が開山と云われている。
境内には、観音菩薩、地蔵菩薩などがある。
草加市役所北交差点の左手に草加神社の社標が建っている。
草加神社は、ここから西に進み東武スカイツリーラインを越えた先にある。草加神社の創建年代は不詳であるが、天正年間(1573-92)に大宮氷川神社を勧請し、氷川社と称して創建され南草加村の鎮守社であったという。
草加駅に向かう県道402号線を渡ると直ぐ右手に八幡神社がある。
八幡神社の創建年代は不詳であるが、誉田別尊、菅原道真、保食命、須佐之男命を祭神とし、正徳(1711-15)の頃神主長太夫なるものが八幡の神体を稲荷社に合殿として祀ったという。拝殿内には、高さ83㎝もある獅子頭雌雄一対が安置されている。
八幡神社の直ぐ先右手に藤城家住宅がある。
藤城家住宅は、明治期の建築で木造二階建、切妻造、二階は格子を立て、軒は太い腕木の出桁造りである。
町屋建築として貴重な建物で国の登録有形文化財に登録されている。

三丁目橋親柱 大川本陣跡 清水本陣跡 氷川神社
藤城家住宅の先の十字路左角に 「三丁目橋」 と刻まれた木柱と 「三町目橋」 と刻まれた親柱が建っている。
草加宿の日光街道には3つの橋が架かっていたが、三丁目橋はその内の一つで、現在は親柱だけが残っている。
街道を進むと左手のマンション前に大川本陣跡がある。
草加宿は、享保年間(1716-36)から発達し、天保14年(1843)によると、南北12町(約1.3km) の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒、人口3,619人であった。大川本陣は宝暦年間(1751-63)までの本陣である。
大川本陣跡の斜向かいに清水本陣跡がある。清水本陣は宝暦年間以降の本陣で、この本陣には会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊したという。 清水本陣跡の直ぐ先左手に氷川神社がある。
氷川神社の創建年代は不詳であり、旧南草加村渋沼の鎮守であったが、明治42年(1909)頃、小学校敷地の拡張に伴い此の地に遷宮された。
主祭神は素盞嗚尊であるが、大黒天と平内さん (江戸時代の伝説的な人物で夜な夜な辻斬りなど悪行を重ね自身の罪業消滅を願って自像を造って通行人に踏みつけさせた) が祀られている。

おせん茶屋公園 源兵衛せんべい 東福寺 久野家住宅
氷川神社の先右手におせん茶屋公園があり、茶屋を模した東屋前に日光街道碑が建っている。公園の名前は、草加せんべいの伝説上の創始者 「おせんさん」 に因むという。
日光街道碑の傍らには、建設省主催の第3回手づくり郷土賞 「小さなふれあい広場30選」 に選ばれた碑が建っている。
おせん茶屋公園から4~5軒先左手に元祖源兵衛せんべいがある。
明治3年(1870)に初代の源兵衛氏が新潟から草加に移り住み、日光街道を往来する旅人に茶店を開いて日用品を売り始め、副業としてせんべいを焼き始めたのが始まりという。
源兵衛せんべいの一軒隣に真言宗智山派の松寿山不動院東福寺の参道がある。
東福寺は、慶長11年(1606)草加宿の祖・大川図書によって創建され、僧賢宥(けんう)が開山したと云われている。
山門、本堂外陣欄間、鐘楼は草加市指定文化財となっており、境内には、不動堂、弘法堂、三鈷の松などがある。
神明一丁目交差点を過ぎて街道が右カーブになる手前左手に久野家住宅がある。
記録によれば宿場は開宿以来4回ほどの大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇えってきた。
この家は、安政2年(1855)の江戸大地震に耐え、また明治3年(1870)の大火をも免れ、以来この場所で宿場の変遷を見続けてきたという。
外観は平入切妻造瓦葺きで、店舗部分と居住部分が丁の字に組み合わされた町屋建築を伝えるものである。

神明神社 おせん公園 草加六丁目橋 札場河岸公園
街道が右カーブする左手に神明宮がある。
神明神社は、与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まるという。それから約百年後の正徳3年(1713)に、この地へ移され、草加宿の総鎮守となった。この頃から、五と十の付く日に市が生れ、大変な賑をみせたと云われ、別名を 「市神・新明宮」 と呼ばれている。
境内には神明宮鳥居礎石、宗像明神碑、大田神碑などがある。
県道49号線との合流地点である神明町交差点におせん公園がある。
公園の名前は、おせん茶屋公園と同じで草加せんべいの伝説上の創始者 「おせんさん」 からきている。
ここには松尾芭蕉と共に旅をした河合曽良像、草加せんべい発祥の地碑などが建っている。
おせん公園の隣に伝右川に架かる草加六丁目橋がある。
橋の手前右手には、創業寛政8年(1796)の草加屋本店がある。
草加六丁目橋を渡ると右手に札場河岸公園がある。札場河岸公園は、綾瀬川沿いにある公園で、綾瀬川に沿って約1.5kmある松並木を遊歩道化した草加松原遊歩道の南端に整備されている。
園内には、舟運の河岸場の面影を再現したものや五角形の望楼、東屋のほか、松尾芭蕉像や正岡子規の句碑などがある。

日光街道碑 矢立橋 ハープ橋 草加松原碑
遊歩道を少し進むと左手に日光街道碑が建っている。
この碑は、埼玉県の県土を縮尺37,000分の1で形どり、「道」 の顕彰プレートは、草加市の位置に設置してある。
日光街道碑の先に趣のある太鼓橋の矢立橋がある。
この橋は谷古宇橋交差点に架かる橋で、信号を待つことなく草加松原遊歩道を進むことが出来る。
矢立橋の名前の由来は、松尾芭蕉の 「行く春や 鳥啼き魚の目は泪 これを矢立の初めとして行く道なほ進まず」 からきている。
遊歩道を進むと綾瀬川に架かるハープ橋がある。
橋の欄干には小さなハープのブロンズ像が付いている。
ハープ橋を過ぎると左手に草加松原碑が建っている。
この碑は、「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原」 と刻まれており、草加市とゆかりの深い日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーン氏の揮毫によるものである。
碑の手前には、おくのほそ道行程図が刻まれたプレートがある。

百代橋 水原秋桜子句碑 中曽根橋 今様草加宿碑
続いて松原団地駅入口交差点に架かる百代橋がある。
橋の手前には、百代橋の名前の由来となった松尾芭蕉の奥の細道の一節 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」 が建っており、橋を渡ると松尾芭蕉文学碑が建っている。
先に進むと水原秋桜子の草加の地名を詠みこんだ句碑 「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり」 が建っている。 更に進むと綾瀬川に架かる中曽根橋がある。この橋は、木製欄干の人道橋で矢立橋・百代橋と並んで趣ある橋になっている。 草加松原遊歩道の北端に草加宿入口に建っていたものと同じ今様草加宿碑が建っている。

馬頭観音ほか 奥の細道壁画 愛宕神社 蒲生大橋
今様草加宿碑から綾瀬川沿いに旭町茶屋通りを進むと左手に覆屋があり、青面金剛の庚申塔、馬頭観音、水神碑が安置されている。 馬頭観音の先で東京外環自動車道の高架を潜った左手の壁面に奥の細道を旅する松尾芭蕉のタイル絵が貼られている。 街道を進んで綾瀬川に架かる槐戸(さいかちど)橋を過ぎると左手に愛宕神社がある。
愛宕神社の創建年代は不詳であるが、祭神は軻遇突智
(かぐつち)命である。軻遇突智命は、伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた火の神、鍛冶の神として信仰されている。
愛宕神社の先に蒲生大橋があり、街道はこの橋を渡っていく。
橋の親柱には、高浜虚子の句 「舟遊び綾瀬の月を領しけり」、水野長福の狂歌 「道ぞ永き日にやき米を 加茂蒲生」 がある。元禄16年(1703)日光街道を結城に向かった水野長福がこの間の紀行を 「結城使行」 と題した書に残している。

蒲生の一里塚跡 綾瀬川沿いの街道 不動明王・庚申塔 ぎょうだい様
蒲生大橋の渡り詰め右手に蒲生の一里塚跡がある。
往時は街道の東西に一基づつ設けられていたと云われるが、現在は東側の一基だけが残っている。蒲生の一里塚は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚であるという。ここには文化年間(1804-18)幕府が編さんした 「五街道分間延絵図」 に記されていた愛宕社、六地蔵尊などがある。
蒲生の一里塚の先は綾瀬川に沿って進み、先のY字路で川沿いの道を離れて直進していく。札場河岸公園から続いていた綾瀬川とお別れである。 街道を進んで蒲生郵便局を過ぎた右手路地角の覆屋に不動明王と一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置されている。
不動明王の台座は道標になっており、「是より大さがミ道」 と刻まれている。ここから日光街道を右に分岐する道は、越谷市相模町にある大聖寺(大相模不動尊)への道であり、大聖寺は不動坊が天平勝宝2年(750)に開基したと云われる古刹である。
不動明王像の先左手に覆屋に安置されたぎょうだい様がある。
覗き込んでも石塔の上の方は良く見えないが、鳥のようなかっぱのような、なんとも不思議な形をしているという。これには、「砂利道供養」 と刻まれていて、宝暦7年(1757)に日光街道の大きな修理があり、修理の完成を記念して蒲生の人びとが建てたものだという。道中の安全を願って草鞋を供えて祈ったという。

地蔵院 清蔵院 久伊豆宮寿神社 照蓮院
ぎょうだい様の先の左手路地を進んでいくと県道49号線沿いに真言宗豊山派の摩尼山地蔵院がある。
地蔵院の創建年代は不詳であるが、寛文年間(1661-72)には地蔵堂として開山したと伝えられている。
境内には、六角地蔵堂、弘法堂などがある。
街道に戻ると右手に冠木門のある真言宗智山派の慈眼山清蔵院がある。
清蔵院の創建年代は不詳であるが、僧祐範が開山、僧永智が中興したという。
山門から境内には入れないが、見える限りでは不動堂、弘法堂などがある。
蒲生駅入口交差点を越えて一本左手の路地を進むとマンションの前に久伊豆宮寿神社がある。
久伊豆宮寿神社の創建年代は不詳であるが、祭神は大国主命である。
街道をどんどん進んで武蔵野線のガードを潜り瓦曽根二丁目北交差点を越えると右手に真言宗豊山派の慈氏山照蓮院徳満寺がある。
照蓮院の創建年代は不詳であるが、天正19年(1591)徳川家康より寺領5石の御朱印状を拝領したという。本堂須弥壇には越谷市指定有形文化財の木造地蔵菩薩立像があり、墓所には武田勝頼の遺児千徳丸供養塔がある。境内には弘法大師一千年御忌供養塔、寛政12年(1800)の宝篋印塔などがある。

分岐 不動明王像 塗師屋 鍛冶忠商店
照蓮院の前の瓦曽根ロータリーY字路は左に進んで行く。
この分岐点には里程表が建っており、東京雷門五里、浦和三里半、大宮五里、川口四里、鳩谷三里と刻まれている。
分岐から右手二本目の路地に寛保元年(1741)の不動明王像が建っている。
台座に文字が刻まれているが、確認出来なかった。
県道52号線の街道を進むと右手に塗師屋の旧家がある。
この太物荒物店塗師屋市右衛門は呉服店を営み、古くは漆を扱っていた店で屋号を塗師屋という。
塗師屋から一軒置いた隣に鍛冶忠商店がある。鍛冶忠商店は、明治33年(1900)に建てられた蔵造りの店舗で、かつては店名に残る鍛冶屋だったという。
現在は日用品雑貨(荒物)を販売している。

旧家 市神社 大沢橋 照光院
街道を進むと右手に格子の美しい2階建ての旧家がある。
この旧家は大野伊右衛門家(宮本町)の分家で明治38年(1905)頃に建てられ、肥料問屋を営んでいた。この向かいには会田金物店の古い建物が建っている。
旧家の先に市神社がある。
市神社の創建年代等は不詳であるが、市神社は市の守護神であり、越谷は鎌倉時代頃には六斎市の立つ町として栄えていたという。
市神社を過ぎると元荒川に架かる大沢橋がある。元荒川は、荒川と利根川が合流していた時代の荒川の本流であった。
大沢橋の最初の架橋は江戸中期以前で、現在の橋は昭和28年(1953)に架け替えられたものである。
架け替え当初は大橋という名であったため、親柱には今も大橋と表記されている。
街道を先に進み信号交差点を渡ると左手に真言宗智山派の梅花山照光院がある。
照光院の創建年代は不詳であるが、墓所には本陣を勤めた大松屋福井家代々の墓がある。
山門前には天満宮、大沢小学校創設の地碑、阿弥陀如来像、如意輪観音像が建っている。
香取神社 秦野稲荷神社 庚申塔 宮内庁埼玉鴨場
昭光院を過ぎると右手に香取神社がある。
香取神社の創建年代は不祥であるが、応永年間(1394-1427)と推定され、五穀豊穣・交通安全・商売繁盛など招福除災の鎮守神として信仰されてきた。
境内には、八坂神社、稲荷神社の境内社がある。
北越谷駅入口交差点を越えて一本目の路地を左に進むと秦野稲荷神社がある。
秦野稲荷神社の創建年代は不詳であるが、赤い拝殿の奥に本殿があり、一対の狛狐は迫力ある表情をしている。
街道に戻って進み東武スカイツリーラインの高架下を潜って行くと左手の草むらに3基の庚申塔などの石塔石碑が建っている。
このうちの1基は、寛政3年(1791)の青面金剛の庚申塔で道標を兼ねている。側面に 「右じおんじのじま道」 と刻まれており、古奥州街道の道標である。
先に進むと左手の林に冠木門があり、宮内庁埼玉鴨場と表示がある。
皇族・政府高官らが賓客を招いて鴨猟を催すために明治41年(1908)に元荒川沿いに設置されたものである。

香取神社 庚申塔 石仏
更に進むと左手に香取神社がある。
香取神社の創建年代は不詳であるが、大林村の鎮守として祀られ、明治6年(1873)に村社となり、明治40年(1907)に神明社、白山社を合祀した。
境内には、稲荷社、庚申塔、猿田彦大神碑、力石などがある。
街道が右にカーブする途中の右手の大型マンションの前辺りに覆屋に安置された宝永7年(1710)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置されている。 東武スカイツリーラインの踏切を渡って間もなく左手の木々の下に聖観音像、地蔵菩薩像、石碑などが忘れられたように建っている
この先で越谷春日部バイパスの高架を潜り大袋駅近くの下間久里まで進んで今回の街道歩きは終了である。

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