緑地部分の上に建つ塩硝蔵地跡解説

明治大学前の歩道橋から塩硝蔵地跡方向を望む

明治大学泉校舎前の緑地部分

 現在、明治大学泉校舎および本願寺派築地別院和田廟所となっているこの附近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。
 当初は、多摩郡上石原宿(現調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ18,896坪(約62,000㎡)あり、御蔵地(貯蔵庫)は、5棟・2町2反9畝5歩(約23,000㎡)の規模であったといわれます。
 当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心3人が年番で交代居住し、警備や雑用には付近の16ヶ村に対して、昼夜交代で3人づつの課役が徴せられました。
 明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれます。
 その後当地は、兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されておりましたが、大正の末期に廃止されました。
 明治の末頃までの火薬庫周辺は、雑木林や欅が生い茂り、鬱蒼とした森となっていて、多くの狐や狸が棲息し、余談に人を化かした話等も伝えられています。
 杉並区教育委員会

歩道フェンスと校舎壁の間にある緑地部分の地下に導水管が通っていると思われる