小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸6kmにわたり植えたものです。これは、新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものと言われています。
 植樹されておよそ60年後の寛政9年(1797)、多摩地域(現東大和市)出身の漢学者大久保狭南が、「武蔵野八景」 の一つとして世に紹介すると、江戸からの花見客が増え、佐藤一斉 「小金井橋観桜記」 や太田南畝 「調布日記」 など文人による紀行文等に登場するようになりました。特に初代歌川広重が描いた 「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」 などによって富士山を背景とし、玉川上水に映える桜並木の風景が有名になりました。天保15年(1844)の将軍世子(後の13代将軍家定)の観桜を契機に、幕府の命により近隣村々によって大規模な補埴が行われ、桜並木の景観が整いました。
 明治16年(1883)には、明治天皇が騎馬で行幸されるなど、関東第一の桜の名所として、西の吉野と並び称され、明治22年(1889)4月11日、甲武鉄道が開通すると、いっそう多くの花見客で賑わいました。
 小金井桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど一本一本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集埴地として、大正13年(1924)12月9日 「史跡名勝天然記念物保存法」 により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正2年(1913)に建立された 「小金井保谷会」 による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。
 戦後、名勝小金井(サクラ)は、樹木の老化や周辺の都市化などによって年々衰えましたが、平成15年(2003)8月27日に玉川上水が史跡に指定されたことを契機に、東京都・地元自治体・市民団体の協働により、吉野や櫻川等の系譜を引き継ぐ山桜の苗が補埴され、名勝小金井の桜並木の再生、復活が図られます。
 小平市・小金井市教育委員会

 かつて此の場所に、江戸時代に建てられた水神社がありました。
 小金井橋の花見風景を描いた江戸時代の絵画や明治時代の文献にも水神社の祠が見られます。此の水神は、玉川上水と小金井橋の安全とともに地域の繁栄を願って建設されたもので、長く地元の人達によって、大切に守られてきました。
しかし、いつしか水神の祠は果て、台座を残すだけになってしまいました。そこで此の度、地元の有志達がこの場所に復元したものですが、現在小金井市では、水神の文化的価値と保存方法について、検討を進めているところです。
 小金井市教育委員会

 小金井橋の歴史は古く、承応2年(1653)、玉川上水が開かれた時に架けられたもと思われます。やがて、小金井堤が桜の名所となると 「金井橋」・「黄金井橋」・「金橋」 などとも呼ばれ、歌川広重らが錦絵や挿絵に描きました。安政3年(1856)に木橋から石橋に架け替えられ、明治時代以降も名勝の中心として多くの写真や絵画にその面影を見ることができます。明治3年(1870)から5年にかけて玉川上水に通船が行われ、その時の船溜が小金井橋の上流左岸にありました。
 小金井橋は、昭和5年(1930)に近代的なレンガ造のアーチ橋に架け替えられ、小金井桜とともに地域のシンボルとして親しまれてきましたが、平成20年(2008)、都道拡張によりレンガ橋はその役割を終えました。
 このレンガと要石は、旧小金井橋の一部を記念に残したものです。
 小平市・小金井市教育委員会

小金井橋解説

名勝小金井桜解説

名勝小金井桜碑

史跡名勝天然記念物保存法に依り大正13年12月内務大臣指定

石橋 (明治30年代)

レンガ造アーチ橋 (昭和5年頃)

木橋 (天保8年頃)

歌川広重 「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」

水神社