南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が、文和4年後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌5年京都に帰ることになった。
 その時、義詮に同行した妻妾が途中で産気づき、ここで男子を出産した。付人として家臣9名がこの地に残り保護したが、君子は幼くして亡くなった。
 生母は悲しみのあまり髪を下ろして醒悟と称して尼となり、この地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。ここに土着した家臣9名が竹と藤蔓で作った葛籠を生産するようになり、松寺の北方に一社を祀りてこの宮が出来た。
 古来 「産の宮」 として安産祈願に参詣する人が多い。

文政4年(1821)の常夜燈

若宮八幡宮

若宮八幡宮 「産の宮」 由緒

足利氏降誕之霊地と刻まれている

覆屋の中の八幡宮と刻まれた石塔

参道口の常夜燈

文政元年(1818)の手水石

産の宮井戸

竹林に囲まれた若宮八満宮