その昔、太政大臣藤原不比等淡海公養老年中(717-23)に創建。正殿に誉田別命、別宮に素戔雄尊・天児屋根命を奉斎し、元正天皇(第44代)近江国に行幸の際神領を賜る。惟喬親王当地に御駐留のみぎり当社社人鯰の献進をなしたる処、親王御歓ありこの地の氏子にかぎり小網を用うることを許可せらる。爾来嘉例として年に二度宮中と当社に鯰の奉献をなしたと云う。清和天皇(第56代858-76)の御代に社殿大改築正一位の神階を賜り、以後明治の維新まで八幡大明神、若宮大明神と尊称し来った。鎌倉時代、佐々木成頼近江国守護職に就くや当社に対する崇敬厚く、祭祀料を加増、その後裔六角氏も特に神事奉行を任命して祭事を厳修せしめた。その後永禄年間不幸にも兵火に罹り、本殿を残し境内ことごとく灰塵に帰した。天正年間織田信長は、佐々木氏の一族たる愛智小十郎に命じて復興造営なさしめた。30数年後の文禄年間、火災をおこし再び本殿を残すのみとなった。徳川時代になるや寛文年間、彦根藩井伊家に申し出で、その復興を願う。藩主これを助け工費幣帛を捧げられ、伝地造営をなし、ほぼ今日の姿に立ち返った。往時は公方座・南座・北座の 「氏子三座」 なる組織あり。いわゆる 「神事」 なる古例祭が厳修せられてきたが、終戦後農地法の改正により、古来の神田を失い遂に三座の制度も自然消滅するに至った。

 八幡神社の草創は明らかではないが、隣接する宝満寺の位置に居館があった愛智氏の守護神として勧請したと伝える。
 本殿は、社蔵の文書によると、寛文11年(1671)頃、大阪の大工により建立されたと伝え、様式や手法からも17世紀後期の建築と考えられる。母屋の柱は円柱とし、木鼻付の頭貫、切目長押、内法長押で軸部を固める。組物は成の高い皿斗の上に大斗を置き、絵様肘木で桁と虹梁を受ける。妻飾は二重虹梁大瓶束とし、中備には蟇股や蓑束を用いる。
 正面には格子戸を入れ、、両側面と背面には横崁板を入れる。内部は両折板扉構で二室に仕切り、後方を一段高くして内陣とする。
 向拝は大面取りの角柱を虹梁型頭貫で繋ぎ、組物で軒唐破風を受ける。
 この本殿は、妻飾の二重虹梁大瓶束上に蟇股を入れ、正面の軒先に唐破風をつけるなど、伝統的な様式が多い近江にあって、新しい意匠を取り入れた建物である。
 (滋賀県教育委員会)

阿形の狛犬

本殿正面の唐破風

八幡神社本殿説明

吽形の狛犬

本殿

八幡神社由緒

吽形の狛犬

明治36年(1903)の常夜燈

高札場跡標柱

阿形の狛犬

常夜燈

神門

八幡神社社標

拝殿内部

拝殿

手水舎

神馬

八幡神社由緒記

石灯籠が並ぶ参道