ここは海老川の西岸、船橋御殿があったところで、標高は約3mの砂州上です。御殿は江戸時代初め、徳川家康の命により作られました。それ以前は戦国時代の船橋大神宮宮司である富氏の居館があったと伝えられ、地政学的には海と陸を制する重要地である海老川河口に位置しています。この頃、船橋・千葉・東金をほぼ一直線に結ぶ御成街道(東金街道)が幕府により作られました。(1613年頃)
 御成街道は船橋御殿・千葉御茶屋御殿(千葉市)・東金御殿(東金市)を最も短距離で結ぶための道でした。三つの御殿は北総の要所となるところに作られ、将軍が鷹狩りや地方巡検時の宿泊・休憩用に使いました。また御殿は中世の城と同じように防御用の土塁や掘があり、軍事的な拠点の役目もありました。御殿には初代徳川家康・二代目秀忠が宿泊した記録も残ります。貞享年中(1684-88)に取り壊されましたが、船橋御殿を描いた絵図が残っているので、面積が約57,000㎡もあり、今の東京ドームよりも広かったことがわかります。市指定史跡の東照宮がある場所は、家康たちが利用した御殿の建物があったところで、富氏が家康を祀るために建立しました。
  (船橋市教育委員会)

 元和元年(1615)徳川家康は、家来と共に上総土気、東金で狩猟を行った際ここに宿泊した。当時の面積は約400アール余(12,000坪余)で、海老川西側の土手に囲まれた地であった。のちにこの地は船橋御殿と呼ばれることとなった。

船橋御殿跡敷地を示す地図

船橋御殿跡東照宮碑

御蔵稲荷神社脇の公園にある御殿跡解説

 徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の 「お茶屋」 又は 「御殿」 と呼ばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約400アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。
 東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。
   (船橋市教育委員会)

御殿稲荷神社拝殿

手水舎

御殿稲荷神社

東照宮鳥居

船橋御殿跡と東照宮解説

葵御紋が下がる東照宮拝殿