享保4年(1719)の地蔵菩薩坐像

宝暦12年(1762)の地蔵菩薩立像

聖観音菩薩

享保4年(1719)の地蔵菩薩坐像

寛文6年(1666)の地蔵菩薩半跏像

大師堂の弘法大師像

海神念仏堂

大師堂

この観音堂は、元禄14年(1701)に江戸神田鍋町の富商である高麗屋作次右衛門が建立寄進したものである。堂内には、同じく作次右衛門が奉納した33体の観音像が安置されている。これは作次右衛門が、前年の元禄13年(1700)9月に死去した父の他、数人の菩提を弔うために寄進したものである。
 中央の一体は厨子に納められてやや大きく、あとの32体は小像で左右に二段並んでいる。この群像は、「三十三観音」 ではなく、西国33番札所の観音像を彫ったものとされている。
 なお、伝説では、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、加藤清正に連行された者の子孫だという。
 奉納者・高麗屋と海神念仏堂との結びつきは、次のように言われている。
 「元禄年間、新開の行徳道の傍らにある念仏堂に、念仏に明け暮れる了故房という修行者がいた。その念仏はすばらしく、往来の人が感涙をもよおすほどであった。ある日、ここを通った高麗屋も念仏を聞いて感激のあまり、宗派まで変えて了故房に帰依し、本堂を改築寄進し、さらに観音堂を建立寄進して、先祖代々の位牌まで納めて信心した。」
  (海神念仏堂)

観音堂由緒

観音堂前の元禄7年(1694)の道標

観音堂

享保9年(1724)の地蔵菩薩立像

元禄17年(1704)?の如意輪観音

享保4年(1719の観音菩薩)

享保7年(1772)の地蔵菩薩立像

寛文9年(1669)の如意輪観音

 元禄7年(1694)10月26日の銘がある。市内最古の道標です。もとは70m程北東寄り、現在の陸橋下となっている三叉路に建てられていました。
 道標正面の 「右いち川みち」 は、この三叉路のある船橋市海神から、市川市八幡を経て同市市川へ至る道(佐倉道の一部)を示し、「左行とくみち」 は、船橋市山野町、石川市原木を経て同市本行徳へ至る道(行徳道)を示します。
 佐倉道は、江戸から佐倉城下に達する道でした。その先が成田へと続いており、江戸中期頃から、成田参詣の隆盛と共に、成田道と呼ばれるようになりました。
 行徳は、日本海と行徳を川で結ぶ 「行徳船」 の発着場でした。行徳と海神を結ぶ行徳道は、楽で早い船旅を好む成田参詣者で賑わいをみせた道でした。
   (船橋市教育委員会)