江戸時代、享保年間(1716-36)徳川幕府は船橋に大砲試射場を設けました。了源寺本堂の南西の丘に砲台の台座があったといわれ、そこから谷津・藤崎方面の松林、原野に向けて試射を行いました。これを廃止した後、その場所に鐘楼堂が建てられ、幕府から 「時の鐘」 として公許されました。その後、明治4年(1871)に廃止されるまで、船橋一帯に時を告げていました。
 この 「時」 の基準となったのが、当寺に保存されている和時計です。この和時計は真鍮製で、江戸時代中期(18世紀)の作といわれています。時刻は、半刻ごとに鐘を二つ鳴らす二挺天符で、指針は固定されており、文字盤が回るようになっています。動力は重さが異なる二つのおもりを利用し、鉄の鎖で二つの歯車を徐々に回す仕掛けになっている珍しいもので、当時は時計を 「自鳴鐘」 と呼んでいました。
 また了源寺には、船橋に宿泊したときこの鐘の音を聞いて詠んだ、蜀山人太田南畝(1749-1823)自筆の狂歌が、掛け軸で保存されています。
  (船橋市教育委員会)

了源寺本堂

了源寺山門

本堂に掛かる光雲山の扁額

鐘楼堂跡解説

納骨堂

親鸞聖人像