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壬生街道   (奈佐原~文挟


令和6年4月14日(日)   ☀    奈佐原~文挟    15.0㎞
いつものことながら天気次第で街道歩きを決めているが、快晴の天気が2日程続くというので4月10日の続きを歩くこととした。奈佐原から先は黒川に架かる御成橋を渡ると街道並みは杉並木が多くなり、往時の街道の面影が色濃く残っている。

道標 猿田彦神社 街道並み 勝善神
樅山駅から850m程で大門宿交差点に出る。ここが前回の続きのスタート地点である。前回この道標を見たのは午後だったが、朝日を浴びた道標を見ると刻まれた文字が確認できる。正面上部に 「之」 の文字があり、その上があったようである。また正面台座に左面と同 「粟野 琴平 岩船 善光」 の文字が刻まれている。 大門宿交差点から上殿丁字路交差点を過ぎて300m程進むと右手筋の正面に猿田彦神社がある。猿田彦神社の創建年代等は不明である。この場所は左右の墓地に挟まれた所であり、神社の北側に十九夜塔、馬力神、地蔵菩薩などの石造物がある。 街道に戻り鹿沼市上殿(かみどの)町を通る街道を北に進む。 先に進むと押原神社入口バス停の手前右手に勝善神が祀られている。

押原神社参道口 押原神社 観音像 彫刻屋台蔵
勝善神の直ぐ先にある高橋外科胃腸科の脇に押原神社社標が建っている。この筋の突き当り650m程のところに押原神社があるが、実際にはこのまま街道を進み、スーパーヨークベニマルの手前の筋を右折していく。 スーパーヨークベニマルの手前筋を右折して280m程入ると左手に押原神社がある。押原神社は、大同4年(809)押原宗丸が大和国(奈良県)三輪大神を勧請し、押原郷の総鎮守として創建したと伝えられている。本殿は享保元年(1716)の造りで鹿沼市指定有形文化財に登録されている。境内には、神楽殿、境内社の八坂神社のほか、甲子塔、石燈籠、石祠などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ左手に観音像が建っている。 観音像から100m程先の右手に鳥居跡町自治会館が建っている。一階は鳥居跡町彫刻屋台蔵になっており、シャッターに屋台が描かれている。

新鹿沼駅 鳥居跡 白山神社 雲龍寺
鳥居跡自治会館から150m程先の新j鹿沼駅前交差点を左折すると突き当りに新鹿沼駅がある。駅前ロータリーには岡本太郎作のモニュメント 「夢の樹」 があり、駅舎の前には巨大なイチゴのオブジェ、木彫りの芭蕉像が建っている。 街道に戻ると新鹿沼駅前交差点の北側のY字路中央に二荒山神社の鳥居跡がある。ここには小ぶりな二荒山神社が建っており、旧一の鳥居跡碑、鳥居跡説明板などが建っている。奈良時代に勝道上人が日光開山後この地に四本の榎を植えたと伝えられ、鎌倉時代に源頼朝�が日光神領として寄進したとされる押原六十六郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居が建てられたといわれている。 鳥居跡から170m程先の信号交差点右手のやぶそばの隣に白山神社がある。白山神社の創建年代等は不詳せあるが、当社は蓬菜町の氏神であり、本社は石川県白山市に鎮座する白山比咩神社で、御祭神は 「イザナギ・イザナミ」 の神で農耕の神である。 白山神社から250m程先の下材木町交差点の手前左手に浄土宗の天動山往生院雲龍寺がある。雲龍寺は、鎌倉時代に平家の落武者の後裔が、法然上人の高弟を招いて開いたのが始まりと言われている。境内には、閻魔堂、鐘楼、井戸のほか、墓地入り口に六地蔵尊、十九夜塔などの石造物がある。参道脇の桜は見事なもので街道からでも良く見える。

薬王寺 鹿沼宿本陣跡 ポケットパーク まちの駅
街道に戻って下材木町交差点を渡ると直ぐ左手筋の奥に真言宗智山派の薬王寺がある。薬王寺は、徳川家康が元和2年(1616)に亡くなり、翌年、久能山から日光山に改葬されたとき、遺骸がこの寺に4日間逗留し、それを記録した 「渡御之記」 が寺宝として残る由緒ある寺である。境内には薬師堂、七福神堂のほか、日光大猷院廟にある家光公の宝塔を模した家光公鎧塔が建っている。 街道に戻ると直ぐ先右手の鈴木内科の一画が鹿沼宿本陣跡である。鈴木内科の東側に鹿沼宿本陣跡公園があり、3つの説明板が立っている。公園の脇には、地蔵堂と稲荷神社石祠がある。 鹿沼宿本陣跡の直ぐ先は古峯原宮通りが交差する石橋町交差点である。この交差点右角にポケットパークがあり、彫刻屋台のレリーフが貼られたモニュメントが建っている。また隣には宝永元年創業の大坂屋箒店があり、街道を挟んだ向かいの常陸屋呉服店の前に例幣使街道標柱が建っている。 常陸屋呉服店の北隣に 「まちの駅新鹿沼宿」 がある。入口に巨大な常夜燈のモニュメントが建ち、敷地内には物産館・休憩所のほかに野外バーベキューのエリアがある。

仲町屋台公園 柳田治平商店跡 久保町由来碑 今宮神社
まちの駅から4軒程隔てた北側に仲町屋台公園がある。ここは広場と駐車場を備えた屋台の展示収蔵施設で、白木造りの仲町彫刻屋台を収蔵展示している。この施設は無人で、入口の点灯電源ボタンを押して、中央廊下と外側から見学できる。 仲町屋台収蔵庫の前の駐車場は、江戸時代の鹿沼宿を代表する柳田治平商店の跡地である。往時は、幕府や大名のために人馬の手配を行う問屋も務めていた。 柳田家跡の先で鹿沼郵便局を過ぎると、その隣の鹿沼警察署久保町交番の隣にポケットパークがある。このポケットパークの前は久保町バス停であり、待合ベンチと思われる施設があるが、この前に久保町の由来碑が建っている。この辺りは、江戸時代には仲町と共に鹿沼宿の中心部であったという。 久保町バス停の先の左手筋を入って行くと今宮神社の脇に突き当たる。参道正面は街道を戻ることになるが、鹿沼郵便の手前の筋を西に入ることになる。今宮神社は、天文元年(1532)、壬生綱房が築城に伴い城の鎮守として、御所の森から今宮権現を勧請して祀ったと言われている。境内には神楽殿、神輿舎のほか、八幡宮、琴平神社、水神社などの境内社がある。

鹿沼城跡 坂田稲荷神社 天満宮 福田家住宅
街道に戻って市役所前交差点を左折し、突き当りの鹿沼市役所前を右折して坂道を上って行くと左手に鹿沼城跡がある。ここは御殿山公園として整備され、中央に野球グラウンドがある。城跡としては、グラウンドの奥に本丸の土塁が残るほか、宝篋印塔や卵塔などの石造物がある。 鹿沼城跡から下ってくると御殿山病院の道路を挟んだ東側に坂田稲荷神社がある。当社は上材木町の氏神で、天文年間(1532-54)の創建といわれている。拝殿は昭和43年に建築されたもので、境内には天保5年(1834)の石燈籠、大正5年(1916)の献桜記念碑などの石造物がある。 街道に戻って市役所前交差点の先を進むと左手に天満宮がある。坂田稲荷神社の東70m程の所に鎮座している。参道脇に大谷石の石蔵、その向かいに天神町屋台収蔵庫がある。天満宮は天文年間(1532-54)、壬生綱房が今宮神社の摂社として勧請したと伝わっている。境内社に厳島神社があり、創建は天満宮と同時期といわれる。 天満宮から160~70m先の右手に国登録有形文化財(建造物)の福田家住宅が建っている。間口9.6mの木造二階建、切妻造の店棚と東背面に続く木造平屋建となっている。街道に面して二階に格子窓、一階に格子戸があり、往時の商家の佇まいを偲ばせている。

宝蔵寺 厳島神社 星宮神社 弁財天
福田家住宅の向い筋を100m程西に入ったところに高野山真言宗の朝日山宝蔵寺がある。宝蔵寺は、宝徳2年(1450)、祐讃法印が開基したと言われている。その後、鹿沼城の鬼門除けとして現在地に移され、代々壬生氏の祈願所となった。江戸時代には徳川家の庇護を受け、将軍家光が日光社参の際本陣としたことから、境内には家光公手洗いの井戸がある。 街道に戻り70m程先の左手筋を入ると池の中央に厳島神社がある。本日4月15日は例祭日で祭の最中だったが、失礼して社殿や由緒などを見せていただいた。創建年代等は不詳であるが、天文年間(1532-54)と伝わっている。境内には庚申塔、白雲山の石塔、橋供養塔があるが、写真に収めるのは遠慮した。 街道に戻ると直ぐ先の信号交差点の左角に星宮神社がある。この神社も祭礼が行われており、境内には入れなかった。星宮神社は、虚空蔵尊として親しまれている戸張町の氏神である。本殿は鹿沼市指定有形文化財(建造物)に登録されており、製作年は寛政年間後半(1795)から文化年間初年(1804)頃とされている。 星宮神社の通りを挟んだ向かいに弁財天がある。由緒等は不明であるが、覆屋の中に祀られた小さな本殿は龍の彫刻が施された立派なものである。

松源寺 地蔵尊・石造物 御山神社 御成橋
弁財天から230m程進むと左手に曹洞宗の萬岳山松源寺がある。境内には塩なめ地蔵尊といわれる地蔵堂がある。地蔵尊は2mほどの高さで天保年間(1830-44)に造られたという石造の立像である。塩を供えてお参りをすると御利益があるといわれている。御堂の傍らには十九夜塔、貞享3年(1686)の庚申塔などの石造物がある。 松源寺から2つ目の丁字路信号交差点の右手はなみずき通りを入って直ぐ左手のグループホームの横に地蔵祠があり、傍らの覆屋の中に馬頭観音、廻国供養塔、巳待供養塔などの石造物がある。 先に進んで御成橋一丁目バス停の先の左手筋を入って行くと御山神社がある。御山神社は、御成橋町の氏神で、寛正3年(1462)の創建といわれている。境内には慶応元年(1865)の勝善神、水神石祠などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ先は黒川に架かる御成橋である。御成橋は、徳川将軍が日光社参のときに新しく橋を架けたことからその名が付いた。またここの町名も御成橋町である。往時は土橋が架けられていたが、将軍社参のときには木橋が架けられたという。黒川は栃木県日光市瀧が原に源を発し、下流の壬生町で思川に合流している。

下野成田不動尊 名残杉 杉並木 富岡一里塚跡
御成橋を渡ると左手の小山に下野成田不動尊がある。ここは江戸時代に徳川将軍や大名、旅人が日光社参の際、陣屋として休憩所として賑わっていたという。山頂にある不動堂には、不動明王と弘法大が祀られているが拝顔はできない。境内からの眺望は良く筑波山・男体山も見られ、御堂脇には明治時代の石祠などの石造物がある。 街道に戻って坂道を上りきると町並みは一変して高い建物は無く、緑が増えて名残杉が見られるようになる。 先に進んで北中西交差点を過ぎると、その先から平成橋東交差点の手前まで、およそ300m程断続的に杉並木が続いている。 平成橋東交差点から700m程先に富岡一里塚跡がある。ここまでは道路脇に歩道が整備されているため車の往来を気にすることなく歩くことができる。この一里塚跡はよく見て歩かないと見落とすほど塚の面影はない。左側の歩道に階段があることから、何とかそれらしき感じがする程度である。ここは江戸日本橋から数えて28里目の一里塚跡である。

㈱鹿沼杢芸 杉並木 並木寄進碑 杉並木
富岡一里塚跡の直ぐ先右手に㈱鹿沼杢芸があり、看板の横に日光杉を使用した小さなログハウスのような東屋が展示販売されていた。その先も街道脇の歩道は花が植えられていたり、桜が咲いていたりと気持ちのいい道である 先に進んで左手のとちぎ日光材鹿沼木材共販所を過ぎると断続的に杉並木が続いている。街道の東側に田圃が広がるところもあり、何とも旧街道らしい景色が続いている。 先に進むと例幣使街道日光20㎞の道路標識があり、その先右手の杉並木の中に並木寄進碑が建っている。ここは鹿沼市と旧今市市(2006年に日光市に合併)の境にあたり、ここから杉並木の特別保護地域の始まりとなる。寛永2年(1625)、徳川家将軍三代に仕えた松平正綱が熊野杉を寄進して植えたのが始まりという。 並木寄進碑の先は道路の両側に杉が植えられており、車が通過する際は危険な状態となるため、左右どちらかの杉林の中を歩くこととなる。枯れ枝が落ちているため足を取られて転倒することもあるが、正に旧街道の雰囲気がある。

小倉一里塚跡 文挟駅
東側の土道をどんどん歩いていくと突然こんもりとした土盛りに突き当たる。ここは江戸日本橋から数えて29里目の一里塚跡である。東塚の斜面に壊れた一里塚説明板があった。西塚も残っているが道路を横断するのは難しいので東塚から撮影した。 小倉一里塚から700m程進むと信号交差点があり、右手はJR日光線の文挾駅である。今回はここで終了し、宇都宮に出て宿泊することとする。

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