祭神は大物主命、相殿天照皇大神、素戔嗚命、少彦名命、日本武尊、誉田別命なり。本社は人皇第51代平城天皇の御字大同4年(809)9月19日も創建にて、押原宗丸の勧請なり。往古は押原の郷66村と称せしが、當郷疫病に罹りて死する者多し。押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す。或夜の夢に大神告げたまはく我を斉祀すれば疫病熄(や)むべしと忽ち覚む。是に於いて清浄の地を択び巨杉の下に霊祠を建て大物主命を奉斎す。疫病忽ち熄み、年穀大いに稔れり。かくして押原郷の惣鎮守押原杉本大明神と尊崇して広壮の社殿を建築せり。それより神殿村と称へたるが、後上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬(あやま)れるか。
本社は黒川円波守房朝崇敬の社なり。後天慶2年(1015)平将門反叛の時、平貞盛、藤原秀郷等が本社に戦勝を祈り、速に追討して戦勝せしを以って、本社に弓箭鏡剣等を奉納せり。爾来本社賓たりしが惜しい哉、第92代伏見天皇の正応5年(1292)8月回禄の災いに罹り、社殿悉く烏有に帰した。寛正4年(1463)9月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。當明神は井戸を掘ることを嫌し給ひ、貞享5年(1688)3月21日神祇官領長上卜部兼蓮に請うて、神位宗源宣旨を以って正一位を賜わり、居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと言い伝ふ。明治2年4月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに言ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと、又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて、神社辺りまで土地を所有し、神社の祭典には全家よりの参拝を待ちて後行へしとか口碑に残れり。
御神木
押原神社由緒
拝殿新築記念碑
左から慶応3年(1867)、年代不明、宝暦10年(1760)の石燈籠
元治元年(1864)の甲子塔
石祠群
境内社の八坂神社覆屋
覆屋に掛かる八坂神社の扁額
八坂神社本殿
手水舎
神楽殿
押原神社本殿覆屋
参道に並ぶ安政4年(1857)の狛犬
拝殿に掛かる押原宮正一位杉本大明神の扁額
押原神社拝殿
平成2年(1990)の竜神池奉納碑
押原神社石鳥居
鉄製の御神橋