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壬生街道   (文挟~日光街道追分


令和6年4月15日(月)   ☀    文挟~日光街道追分    11.0㎞
昨日は宇都宮に宿泊したので午前7時前には街道を出発することができた。文挟駅前から杉並木が始まり、途切れる辺りが旧文挟宿ということになる。その先の二荒山神社から杉並木が復活するが、道路は車の往来が多くて危険なので左手の土道を歩くこととした。、

文挟駅 杉並木 追分道標 延命地蔵尊
早朝の文挟駅で降りたのは私一人だけであった。駅舎を出ると目の前が杉並木の壬生街道(例幣使街道)である。 朝日が当たる杉並木はとても綺麗であるが、写真を見ての通り歩道がないので、止む無く左側の土道を歩くこととなる。 文挟駅前から200m程先の文挟信号交差点の右手に宝暦12年(1762)の追分道標が建っている。道標は日光に向かって建っており、右鹿沼・出流・岩船 左大谷・田下・宇都宮道」 と刻まれている。 追分道標の直ぐ先左手の祠に延命地蔵尊が祀られている。この地蔵尊は蓮座に乗った地蔵菩薩坐像であり、全身に赤い布をまとっている。

旧文挟宿 二荒山神社 杉並木 土道の歩道
延命地蔵尊の辺りで杉並木が途切れ、街道沿いに集落が現れる。何となくではあるが、かつての文挟宿の雰囲気を感じることが出来る家並みである。 集落が切れると街道がやや左に曲がるところから杉並木が復活する。この右手の杉林の中に二荒山神社がある。創建年代は不詳であるが、街道の突き当りという好立地に鎮座している。境内には星宮神社、稲荷神社など複数の境内社がある。またここには昭和24年にこの地を襲った大震災の復興記念碑、江戸時代の飢饉に備えた文挟宿郷倉などが建っている 二荒山神社の左から杉並木の道が復活するが、この両側に土道が無いため止む無く車道を歩くが、車の往来が多くて注意しないと相当に危険である。試しに段上に上がってみたが数メートル進むのがやっとであった。左手の斜面に馬力神があり、段上には廻国供養塔などの石造物がある。 危険な車道を100m程進むと左手段上に土道の歩道がある。この道は街道とは言えないが、中山道や甲州街道の峠道を歩いていると思えば快適な道である。車道とはかなりの段差があるが、所々で車道に出られるところもある。やがて土道から板張りの歩道になるところあり、ここからは左手に男体山が見える。

カラーコーン 迂回道 土道復活 板橋一里塚跡
板張りの歩道が途切れて左手の集落へ抜ける道に出るとその先は土道になるが、その脇にカラーコーンが立っている。不思議に思いながらも土道を150m程進むと土道は無くなり、右手の車道にも出られず、引き返してカラーコーンの左手の集落へ抜ける道を迂回して自動車用品店の前へ抜けた。 自動車用品店の前へ抜けてはみたが、そこから先に土道は無く止む無く、先ほど抜けて来た道に戻り、車道と並行する集落側の道を進んだ。 集落側の道の途中で車道に出られるところがあり、行ってみると土道が復活していた。整備された道ではないが車の往来を気にする必要はない。しかし、枯れ枝に足を取られないように注意する必要がある。先に進み、右手に太陽光発電所が見える辺りが板橋地区で、土道の左側に道路の擁壁が出てくる先で車道に出る。 土道から車道へ出たところで一瞬杉並木が途絶えるが、直ぐ先から杉並木が始まる。この右手に江戸日本橋から数えて30里目の板橋の一里塚跡(東塚)がある。塚脇には祠があり、中には文政8年(1825)の如意輪観音が祀られている。

板橋宿 本陣の薬師堂 福生寺 栖克(すみよし)神社
一里塚跡の先で杉並木を抜けたところが板橋宿である。 街道右手の畑の中に板橋宿本陣の薬師堂が建っている。薬師堂は閉ざされているが、周囲に石燈籠と石祠が建っている。後方に見える山は城山で、宇都宮氏一族の板橋城が築かれていた。 街道に戻ると直ぐ先の板橋交差点を渡った右手に高野山真言宗の福生寺がある。福生寺の創建年代等は不詳であるが、参道脇に本多正盛の墓のほか、卵塔、馬頭観音などの石造物がある。本多正盛は、日光東照宮造営の際、同僚と論争となり、同僚は自害、自身も造営後に自刃して福生寺に葬られた。 福生寺の東側に栖克神社がある。当社の創建年代等は不詳であるが、境内には胡桃下(くるみがした)稲荷神社という立派な境内社がある。また参道口には、市道改修記念碑、震災復興記念碑、納税記念碑などの碑が建てられている。

枡形道・杉並木 杉並木 車両通行止め 車道の杉並木
街道に戻ると板橋交差点の100m程先で左に折れる枡形道となり、杉並木が始まる辺りから右に折れていく。この入口左側に 「←普通地域・特別保護地域→」 の標柱があり、右側に勝善神が建っている。 特別保護地域に入ると杉並木は車道から3~4m程高いところにあり、車道を歩くことになる。しかし、この道はほぼ車の往来がないので、杉並木を見上げながら歩くことが出来る。 杉並木と車道の段差がある道を200m程進むと段差は次第に低くなり、Y字路のところで直進の道は車両通行止めなる。ここから1㎞程はほぼひとりだけの旧街道を満喫できる 車両通行止めの道を1㎞程進んで信号交差点に出ると、右手から来る枡形で分かれた国道121号が合流してくる。この先は車に注意して車道を歩いていく。

庚申塔・供養塔 地震坂 分岐 十石坂
国道121号と合流してから700m程先に当たる右手筋の角に石塔が3つ建っている。左から.庚申供養塔、自然石の庚申塔、安政5年(1858)の四国西国坂東巡拝供養塔である。 庚申塔・供養塔から緩やかに上っていくと右手に地震坂の説明板が建っている。この辺りは昭和24年12月の大地震で地滑りを起したところであり、本来の街道はこの上にあったという。 坂道を上がり切ったところで分岐がある。正面に進入禁止の道路標識があり、車は直進出来ず左に回っていく。一方通行路に入ると直ぐ先で急カーブを描いて下っていくが、その先で左から回り込んできた道が合流している。 一旦下った坂は今度は急な上り坂となり、前方に日光宇都宮道路の高架が見える。この坂は十石坂といい、日光東照宮の造営の際、黒田長政が大鳥居を寄進するため巨石を運んできたが、この急坂に難儀し、人足に食べさせた米が十石に及んだことに由来するという。説明板は無いが、ごみ捨て禁止の表札と一緒に十石坂の手書き表札が建っていた。

観音堂 室瀬一里塚跡 磐裂(いわさく)神社 荒神橋
十石坂を上りきって平坦な道からやや緩やかに下っていくと、右手筋の奥に観音堂が建っている。周囲は墓地であるが、御堂の前には享保9年(1724)の念仏供養塔、十九夜塔、卵塔などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ先左手に室瀬の一里塚跡がある。標柱が建っており28里と記されているが、ここは江戸日本橋から数えて31里目の一里塚跡である。土盛りが小さいので西塚も東塚も杉並木の一部にか見えない。 室瀬一里塚跡から巨木の杉並木を見ながらおよそ450~60m程進んだところで、左手筋を入ると室瀬の小さな集落があり、山の斜面に磐裂神社がある。当社の創建代等は不詳であるが、江戸時代には星宮神社と称し、明治期に磐裂神社と改称したという。境内には嘉永6年(1853)の石燈籠、大正11年(1922)の手水石、境内社の石祠などがある。 街道に戻ると間もなく田川に架かる荒神橋がある。田川は、直ぐ上流の日光市千本木を源流とし、いくつかの支流を集め、下流で鬼怒川に合流する一級河川である。

道標 杉並木 日光街道踏切 安産地蔵尊
荒神橋から80m程先の右手筋の角に道標が建っている。街道に面して 「向右鹿沼ニ到ル 左今市日光」、右面(写真)に 「向右当村ヲ経テ森友ニ至」 と刻まれている。 道標の先は杉並木が一段と大きくなり凄みを増してくる。木の根がむき出しのものや、四本つながったものなどがある。途中、車道と杉並木の段差が低くなったところで、今回の歩きで初めて杉並木を歩く旅人とすれ違った。その先に特別保護地域と保護地域の境界標柱が建っていた。 特別保護地域と保護地域の境界標柱の先でJR日光線の日光街道踏切を渡っていく。 日光街道踏切の先もこれまでと変わらぬ杉並木が続き、およそ600m程先で信号交差点に出る。この交差点を渡った左側に東屋が設置されたポケットパークがあり、その先で右折すると右手に安産地蔵尊がある。この地蔵尊は区画整理工事で見つかったもので、台座に 「安産地蔵尊荒神橋」 と刻まれていたので祀ることになったという。

日光街道追分 追分地蔵尊 二荒山神橋
街道に戻ると程なく日光街道と合流する。この合流地点右手に追分地蔵尊が祀られている。 地蔵堂に祀られた地蔵菩薩坐像は、日光街道と壬生街道の追分に安置されているため、俗に「追分地蔵」といわれている。製作年代は不詳であるが、室町時代と推定され、八代将軍吉宗の日光社参の際、既にこの地に祀られていた記録があるという。境内には二十三夜尊・くさ地蔵尊が祀られた祠のほか、道標、庚申塔、石燈籠などの石造物がある。壬生街道としては、この追分で終了である。 追分まで来たついでに日光東照宮へ寄ることした。前回(平成28年、2016)、日光街道を歩いた時には、「平成の大修理」 が行われており、陽明門と大猷院の二天門は見ることが出来なかったので、今回、しっかり見ておきたい。

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