天満宮宮殿屋根(1棟)
 天満宮は天文年間(1532-54)、壬生綱房が今宮神社の摂社として勧請したといわれ、祭神として菅原道真を祀っています。旧宮殿屋根は昭和58年(1983)の本殿屋根の葺替えの際、天井裏から発見されたものです。裏面には墨書銘が記され、宮殿の建立が天正17年(1589)であったことがわかります。
 銘文に名が出ている昌淳(しょうじゅん)は壬生氏の出身で、日光山51世権別当を務めた人物です。また、この宮殿が日光山の僧俊設によって寄進されたものであることもわかり、壬生氏と日光山が密接な関係にあったことを示しています。
 当時の鹿沼は壬生氏の支配下にあって、本拠鹿沼城は、小田原北条氏と宇都宮・佐竹両氏の対立の狭間にありました。宮殿は天神像とともに、宇都宮氏・佐竹氏の攻撃を受ける危機的状況下で製作されたものと考えられます。
(鹿沼市教育委員会)

社  名 厳島神社
御祭神 市杵島姫神
創  建 天文年間と伝わる 
本社は弁財天とも弁天様とも呼ばれ、信仰を越えてむしろ親しまれている。宝舟に乗った七福神のうち、楽器を持っておられる美しい紅一点の女の神様である。この弁天様に願をかけ、努力すれば、きりょうやスタイルが美しくなるだけでなく、歌舞音曲はもとより、料理・裁縫・茶道・華道等、およそ女の芸事のすべてに上達し、その上良縁に恵まれ、良い子がさずかり、なお一生お金に不自由しなくなると、広く根強い信者を持っている。
(天神町自治会)

厳島神社説明

厳島神社社殿

境内社の厳島神社鳥居

明治21年?の玉垣寄附芳名碑(左)・明治24年(1891)の石橋敷石寄附芳名碑(右)

木造天神坐像(1躯)
 本像は天満宮宮殿内に収められる衣冠束帯姿の天神坐像です。旧宮殿屋根裏に記銘したためか、像自体には銘文などは見られません。顔面の胡粉は良質で、表情も個性的で力強く江戸時代以降に見られる柔和な天神像と異なり、怒り天神型の面影を残しています。
 天神像は鎌倉時代から南北朝時代には、怒りの形相を表しますが、室町時代中期以降になると怒りの表情が薄れ、穏やかになります。本像も眉毛の先端を少し跳ね上げていますが、顔の表情はおおむね穏やかであるため、作風から見ても製作年代は、左記の旧宮殿屋根銘の天正17年(1589)と符合すると考えられます。
 戦国武将には怨敵調伏の神としての天神信仰が見られ、本像は小田原合戦及び壬生家滅亡の前年に、壬生氏と日光山が一体となって戦勝を祈願した記念碑的な作であったのでしょう。
(鹿沼市教育委員会)

天保6年(1836)の石燈籠一対

宮殿に掛かる天満宮の扁額

天満宮説明

鳥居に掛かる天満宮の扁額

天満宮宮殿

天満宮宮殿

参道脇の大谷石の石蔵

元禄2年(1689)の天満宮石鳥居

参道脇の天神町屋台収蔵庫