【勤勉な四郎兵衛】
 宝暦4年(1754)、商業を営む鈴木家の二男「鈴木四郎兵衛」として鹿沼宿石橋町(現在の鹿沼市石橋町)に生まれました。読書好きの父親や学問に詳しい伯父に囲まれて育った四郎兵衛は、幼い頃からたいへん学問を好みました。勉学に励んだ四郎兵衛は、24歳の時、当時の最高の学校である江戸の昌平校に庶民の出身として初めて入学し、その後わずか3年、27歳の時に仰高門という校舎の先生となり藩儒に出世できる実力をもつほどになりました。
【「麗沢の舎」の開塾】
 28歳になった四郎兵衛は、鈴木家を継ぐために故郷に戻ります。その年、自宅の裏に私塾「麗沢の舎」を開き、地域の教育に力を尽くすこととなりました。「麗」は「ならぶ」の意味で、「麗沢」とは隣り合っている沢が互いに潤すという意味で、友人が助け合って勉学に励み、人格を磨き合う例えです。またこの時から四郎兵衛は、石橋町に住んでいたことから呼び名を「石橋」としています。
 この「麗沢の舎」では蒲生君平をはじめとした多くの優秀な人物が学びました。
【多くの難民の救済】
 開塾後、江戸時代最大の天明の大飢饉(1783)の際には、人々が暮しに困っている状況を見て石橋は、父親と協力し財産や米を配分して人々を救いました。その後も災害時に備えた独自の対策を立て人々の救済にあたるとともに、子供を育てる資力の無い人への着物や金銭の援助に加え、自らも子供を引き取って養育もしました。石橋により助けられた者は500人あまり、養育者数も10人を超えています。

 江戸時代より鹿沼の建具産業の中で組子の高度な技術が発展を遂げてきました。建具とは、建築物の部品で部屋を仕切るために取り付ける可動のものを言い、格子戸、襖、障子、ガラス戸といったものがそれにあたります。鹿沼の建具産業のはじまりは、約350年前、日光東照宮造営の際に全国から参加した建築技術者の一部が鹿沼に定住し、その職人の技が子孫に伝えられたことだと言われています。その後、書院障子や欄間等の繊細な技術を駆使した組子を頂点として発展し、関東大震災後と第二次世界大戦後の復興の際に大量の建具の需要が発生したのを期に、鹿沼組子として確実に名が知られることとなりました。
 鹿沼組子は洋風化された住宅にも似合うものに姿を変える等、時代にあった形で現在もなお生き続けています。

 ここは、江戸時代末頃に宿場町(旅人のための宿や馬等が用意してある街道の町)として大きく発展していた 「鹿沼宿」 の 「本陣跡(諸大名が宿所とした公認の宿の跡地)」 にあたります。
 江戸時代初期頃、徳川家康を祀る東照宮が日光に造営されて以来、毎年 「御幣(金で作られた神に供えるもの)」 を贈るため、朝廷(京都)から例幣使と呼ばれる公卿が日光へ派遣されていました。その江戸と日光を結ぶ日光例幣使街道の大切な場所として 「鹿沼宿」 は発展し、この地に構えていたのが 「鈴木家本陣」 です。その先祖は鹿沼出身の偉人 「鈴木石橋」 でもあります。
 鈴木家本陣は江戸時代末頃、日光例幣使をはじめ、その他の東照宮関係者といった身分の高い人の数多くが宿所として利用した本陣でした。また、その構造は、通常本陣というと多くの荷物の処理を考慮して物置等がつくられていましたが、例幣使街道に面するため鈴木家本陣は、そうした機能を必要とせずに寝泊まり専用の施設として整備されるという特徴が見られました。

稲荷神社石祠

開運地蔵尊の扁額が掛かる地蔵堂

鹿沼宿本陣跡公園の説明板

鈴木石橋説明

本陣跡説明

鹿沼組子説明