金売り吉次は、鎌倉時代の初め頃、源義経に仕えた金売り(砂金などの売買を商売とした者)と言われています。
 源義経は平家を壇ノ浦に滅ぼした後、兄頼朝と不仲になり、奥州平泉へ逃れました。吉次は義経の供をし、この稲葉の地まで逃れてきましたが、病に倒れこの地で生涯を終えました。
 里人たちにより、吉次の墓とともに吉次の守護仏である観音様を祀ったお堂(ここより約20m東に現存)が建てられたと言われています。
 また江戸時代の 「奥の細道」 で知られる松尾芭蕉に随行した曽良の日記に 「壬生ヨリ楡木ヘ二リ ミフヨリ半道ハカリ行テ 吉次カ塚 右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」 と記されています。
(壬生町教育委員会)

畑地に建つ金売り吉次の墓

祠に祀られた金売り吉次の墓

金売り吉次の墓説明